2018/05/28

サム・ンジマ、亡くなる ソウェト蜂起の歴史的瞬間を捉えた写真家

報道写真家にとって、運や偶然が果たす役割は大きい。たまたま事件の現場にいたとか、たまたま立ち位置がよかったとかのおかげで、歴史的瞬間をものにし、一躍有名になる例も多い。もちろん、写真家としての腕や、どこでなにが起こっているか嗅ぎつける情報収集能力や、遭遇した瞬間を逃さない判断力も必要だが、その瞬間に数秒遅れたり、隣の道にいたりしたのでは、せっかくの腕が生かせない。

知り合いの写真家は20年以上前、世界的な報道写真賞を受賞した。1994年、南アフリカの白人右翼3人が殺されたときの写真だ。命乞いをする姿がテレビカメラにも収められているし、スチールの写真家も複数現場にいてシャッターを切っていた。「でも、あいつの立ち位置がたまたま一番よかったんだ」とその場にいた別の写真家。

この写真がWorld Press Photo Spot News部門3位(1995年)になった


同じく南アの写真家ジョディ・ビーバー(Jodi Bieber )は『タイム』の表紙になったアフガニスタン人少女の写真で世界的に有名になった。その後も主に自分のプロジェクトに専念し、精力的に活動している。


撮った写真が世界的に有名になったり、大きな賞を受賞することがその後の成功に即つながるわけではないけれど、少なくともこれまで閉ざされていた色々なドアを開けてくれることは確かだろう。

ところが、撮った写真が世界的に有名になったばかりに、写真家としての活動をやめざるを得なかった不運な人もいる。

サム・ンジマ(Sam Nzima)がそのよい例。1976年6月16日、警察に撃たれたヘクター・ピーターソン(Hector Pieterson)を腕に抱えて走るムブイサ・マクブ(Mbuyisa Makhubu)と、並走するヘクターのお姉さんアントワネットを撮った写真が代表作。

South African History Archive

サム・ンジマは1934年8月8日、現ムプマランガ州で生まれる。父親は農場労働者。10代で写真に目覚め、コダックカメラを購入して、夏休みにクルーガー国立公園を訪れる観光客の写真を撮って小銭を稼ぎ始めた。

父親の雇用主に農場で働くことを強要されたが、数か月後逃げ出してジョハネスバーグへ。庭師の仕事をみつけ、働きながら高校を卒業。

電話交換手、ホテルのウェイターなど様々な仕事につく傍ら、フォトジャーナリズムに興味を持ち始め、遂に1868年、黒人読者を対象とした日刊紙『ザ・ワールド』(The World)に雇われる。

1976年6月16日、子供たちの抗議運動を取材するためソウェトに出向く。警察と子供たちの間に立っていたら、警察が無差別に発砲を開始。目の前で子供が倒れた。若者がその子を腕に抱えた。ンジマはシャッターを切り始める。

警察がカメラを開けると思ったので、急いでフィルムをソックスに隠し、別のフィルムをカメラに入れる。案の定、警察はカメラを取り上げ、中のフィルムを光に晒した。

翌日、ンジマの写真が『ザ・ワールド』の一面を飾った。南ア警察は即、この写真を掲載禁止にしたが、世界中の新聞が一面に使うことを止めることはできなかった。

ヘクター・ピーターソンの写真を壁にかけるサム・ンジマ(Sunday Times

警察の反応は早かった。『ザ・ワールド』のオフィスにやってきて、ンジマに「仕事と命のどちらかを選べ」と脅した。「逮捕するために来たのではない。射殺するよう指令を受けている」というのだ。

『ザ・ワールド』を辞任し、生まれ故郷の村に戻って酒屋を開業するものの、治安警察に居所を突き止められ、19か月の自宅軟禁処分を受ける。その後何年も、「あの写真を撮ったばかりに、フォトジャーナリストとしての未来が粉々になった」と後悔の念を口にしていた。

「あの写真」のせいで写真家生命が終わったどころか、一銭の印税も入らなかった。『ザ・ワールド』紙を所有するアーガス(Argus)社が著作権を譲ってくれなかったからだ。22年後、アーガス社がインディペントグループに買収されてやっと、「著作権にほとんど価値がなくなったから」という理由で、ンジマに著作権が戻って来た。

2018年5月10日、83歳のンジマは生まれ故郷の自宅で倒れる。ディヴィッド・マブザ(David Mabuza)副大統領が5キロ離れた場所に建ててくれた新居に移る準備中だった(マブザが自分の財布からお金を出して個人的に建てたのか、副大統領の権限で、国家予算から費用を捻出したのかは不明)。

副大統領が建ててくれたという新居(IOL

直ちに病院に運ばれたが、2日後の5月12日に永眠。妻のテルマ(Thelma)、7人の子供、15人の孫、4人のひ孫をあとに残した。

「5月26日の葬儀はムプラマンガ州公葬にする」とシリル・ラマポザ(Cyril Ramaphosa)大統領が発表。

「ンジマ氏は残酷な人種差別政権に反対する闘争期間中、フォトジャーナリズムを通じて大きく貢献したことでその名をとどめるだろう。氏はレンズを通して、アパルトヘイト警察の残虐行為を国際社会に知らしめた。ンジマ氏はまた、瀕死の若者ヘクター・ピーターソンの写真により後世に名を残すだろう。この写真は、黒人学校の教育言語としてアフリカーンス語を強要しようとしたことに対する抵抗の象徴となった。遺族に対し、心からのお悔やみを申し上げたい。冥福をお祈りする。」(ラマポザ大統領)

アパルトヘイトが終わってから、故郷で写真学校を開設したという(Sowetan

【参考資料】
"Photographer Sam Nzima to be given special provincial official funeral", Sowetan (2018年5月17日)
"Sam Nzima: Photographer who made history 1934-2018", Sunday Times (2018年5月20日)
"Sam Nzima died while family prepared to move into new house built by Mabuza", IOL (2018年5月27日)

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