どういう話の展開だっただろうか。エチオピア旅行中、誰かがそんなことを言った。冗談めかしたかなり本気の言葉に、その場にいた南アフリカ人たちは全員が真顔で頷いた。
その数日後、エチオピアから戻って来た私を、パートナーのペッカが空港まで迎えに来てくれた。
「お父さんが昨日入院したらしい。今からお母さんと病院に着替えを持って行く。」
連絡があったばかりで、詳しい事情はよくわからないという。ちょっと風邪気味だったが、お父さんが心配だ。「着替えを持って行くくらいなら」と一緒に病院へ向かうことにした。
ジョハネスバーグの我が家から別の町ベノニのエミリア(お母さん)宅まで車で40-50分。着替えどころか、なぜか上布団や枕まで用意してある。そこから隣町ボックスバーグにある国立病院「タンボ記念病院」(Tambo Memorial Hospital)まで更に30分。保健省のウェブサイトによると、1905年設立、「機能している」ベッドが540床という総合病院だ。
アケ(お父さん)は大の病院嫌い。それでもしばらく下痢が続き心配になったので、前の日の10月9日、病院に行ったという。丸一日待ってやっと診察を受ける。腹部に固まりがある。悪性腫瘍かもしれないから検査要。即入院となった。
エミリアはそのまま帰宅。翌朝友人に運転してもらって病院へ。アケのいる大部屋に足を踏み入れてびっくり。ここ数日、冬並みに寒くなっていたのだが、アケには上布団もかかっていない。ズボンとパンツを脱がされオムツ姿。パジャマも着せてもらえず、下半身は剥き出しのまま。暖房はない。体が石のように冷たくなっていた。82歳の病気の老人がそんな有様で、一晩放っておかれていたのだ。(数日後、母親が国立病院に入院したことのある友人が、「枕と上布団は持参することになっているのよ。食事がひどすぎるので、食べ物も毎日持って行ったわ」と言っていた。)
布団と着替えを持って行こうにも、エミリアは足が悪く、自分で運転できない。近くに住む友人は都合がつかない。そこでジョハネスバーグの息子に電話をかけ、救いを求めた次第だ。
入院が決まった時点ですぐ連絡してくれれば良いのに、ペッカの両親は古い世代のフィンランド人。質素に慎ましく暮らし、大抵のことは我慢してしまう。数百年間、スウェーデンやロシアに占拠され、やっと1917年に独立した後もドイツ、ソ連という大国の間で翻弄され、第2次大戦中は破壊しつくされ、国が裕福になったのはごく最近のこと。長く厳しい冬のせいもあってか、フィンランド人にはまるで、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」遺伝子が組み込まれているかのようだ。(今の若い世代は国際化が進み、意識も行動も変わってきているが。。。)
ペッカは私とエミリアを病院の入り口で降し、駐車場へ。私は足の悪いエミリアを車椅子に座らせる。枕、上布団、パジャマ、下着、スリッパなどを曲芸のように左手に抱え、右手と体で車椅子を押しながら、駆け足で病室に着いたのが午後3時55分。面会終了時間の5分前だ。
既に自力で食べることも水を飲むこともできないほど弱っているアケの姿に、私は愕然とする。だって、昨日まで普通にお喋りし、自分で運転していたというのに。。。
頭も朦朧(もうろう)としているようだ。当然のことながら、自力でパジャマを着ることもできない。しかし、看護婦たちは患者に関心がなく、誰もケアをしてくれない。なのに、「面会時間は4時までだから」と私たちを追い出そうとする。アケの様子や病状を聞こうにも、看護婦はまったく助けにならず、医師にも連絡がとれない。
面会時間は午後3時から4時までと、午後7時から8時までの、1日計2時間だけ。病院職員がケアしてくれないのに、家族が傍で面倒を見ることは許されない。
ペッカがなんとかゴネて、アケにパジャマを着せるために残る。しばらく外で待っていたエミリアも、こっそりまた病室に忍び込む。病状や検査の予定などを確認しなくては。。。(外で寒い中、数時間待っていた私は風邪が悪化し、この後2週間寝込むことになる。普段は丈夫なだけが取り柄で、めったに風邪もひかないのに。)
アケは水分も栄養分も自力で取れないため、婦長に点滴を強くお願いする。更に、翌日の水曜日に腹部の固まりの検査をするという確認が取れた。
しかし、何度も何度も頼み込んだ挙句、やっと点滴をしてくれたのは、なんと木曜日だった。国立病院に入院して3日間、水も食べ物も与えられなかったのだ! 患者を殺そうとしているのか。
木曜の朝、エミリアが病棟に電話。看護婦では埒が明かないので、朝巡回に来る医師を捕まえようと思ったのだ。ところが、看護婦は「別病棟に移った」。その病棟に電話したところ、「退院した」。そんなはずはないでしょう!?!
ペッカがなんとか仕事の都合をつけ(私は寝込んで動けない)、午後エミリアを連れて病院へ。アケは外科病棟に移されていた。水曜日の検査はなかったらしい。翌日の金曜日に「手術」予定という。腫瘍の陽性悪性を判断する検査なのか、それとも腫瘍の摘出手術なのか。誰も知らない。
別病院(ケアしてもらえる私立病院)に動かせる状態ではないし、点滴と酸素吸入はしてくれているので、祈るような思いで待つ。
しかし、金曜日に手術はなかった。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。誰も教えてくれない。看護婦も医師も、全然患者に関心がない。無力感、怒り、「信じられない!」感が募るばかり。。。
そして土曜日。朝早くから病院で待ち構えて、やっと巡回の医師がつかまる。担当医ではない。妻も息子も、担当医とは入院中、一度も話せなかった。
巡回の医師曰く、「私たちには何もできないから、家に連れて帰りなさい」。
・・・って、検査も診断もしないで・・・?
5日間の入院の挙句、なんの説明もなく・・・?
あまりにひどすぎる!
(次回に続く)
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