2014/07/19

ノーベル文学賞作家ナディン・ゴーディマ、逝く

7月13日、ナディン・ゴーディマ(Nadine Gordimer)が亡くなった。享年90歳。ベッドで寝ている間に、安らかに息を引き取ったとのこと。ごく最近、書き物をしている姿を見たという証言がある。最後まで頭もボケなかったのだろう。まさに大往生。理想の逝き方。

晩年のナディン・ゴーディマ。最後まで毅然としていた。(Varsity Breakout

「シネマヌボー」(Cinema Nouveau)という、小粒だが良質の作品を揃える映画館で、その小さな姿をよく見かけた。年配の付き人といつも一緒だった。

1990年の後半だっただろうか、自宅に伺ったことがある。パークタウンウェストという、昔からの閑静な住宅街に立つ古い家だった。アパルトヘイト時代、当局に追われる解放運動家を自宅にかくまった話などを聞いた。物静かな人だった。

政治意識が高く、アパルトヘイト政権への反対を明言するものの、デモの先頭に立ったり破壊工作をしたりするタイプではないゴーディマにとって、文学でアパルトヘイトの欺瞞や理不尽さを淡々と描くことが一番性にあった抵抗運動だったのだろう。アパルトヘイトが提起した倫理問題や人種問題についての作品を発表し、『バーガーの娘』(Burger's Daughter)、『ジュライの人々』(July's People)などは南アフリカで発禁処分となった。

1923年11月20日、ジョハネスバーグの東にある田舎町スプリングズの近くで、ユダヤ系の家庭に生まれる。父親はラトビア出身の時計職人、母親はロンドン出身。倫理観や政治意識が高かったのは母親の方だった。黒人が直面する貧困や差別に心を痛め、黒人の子供を対象とした保育園を開いたほど。

母親はナディンの心臓が弱いことを心配し、殆ど学校にやらなかった。家でひとりで過ごすことが多かった子供時代に、文章を書き始めた。作品が初めて出版されたのは1937年、15歳の時。子供向けの短編だった。大人を対象とした小説が初めて出版されたのは16歳の時。1951年、『ニューヨーカー』誌に短編を発表。国外でも知られるようになる。

1949年、歯科医と結婚し一女をもうけるものの、3年もしないで離婚。1954年、著名なアートディーラーと再婚し、一男を得る。夫が亡くなる2001年まで連れ添った。

1961年のナディン・ゴーディマ(Mail & Guardian

解放運動に積極的に関わるようになったのは1960年。ふたつの出来事がきっかけだった。親友が逮捕されたことと、行進する群衆に警察が発砲し、69人が死亡した「シャープヴィル虐殺」(Sharpeville Massacre)である。

ネルソン・マンデラの弁護士だったブラム・フィッシャー(Bram Fischer)、ジョージ・ビゾス(George Bizos)と仲良くなり、マンデラが被告席から行った有名な演説『死ぬ覚悟が出来ている』(I am Prepared to Die)の編集を手伝った。代表作のひとつ『バーガーの娘』はブラム・フィッシャーの家族をモデルにしている。(2009年の私の個展で右の絵を買ってくれたのは「バーガーの娘」その人、ブラム・フィッシャーの娘イルセだった。)

当時、非合法だった解放運動組織「アフリカ民族会議」(ANC)のメンバーになり、一貫してアパルトヘイトに反対する。しかし、政府の目の上のタンコブになっても亡命することなく、頑固として国内に留まった。1990年にマンデラが解放された時、真っ先に会いたがった人のひとりがゴーディマだったという。

1974年英「ブッカー賞」(Man Booker Prize for Fiction)、1991年ノーベル文学賞受賞。

皮肉にも、アパルトヘイト政府に発禁処分を受けた『ジュライの人々』は、アパルトヘイト後政権を取ったANC政府から、「極度に人種差別的、性差別的で庇護者ぶっている」という理由により、高校の推薦図書から外されてしまう。この事件はネット上で大きく広まり、大批判を受けたケイダー・アスマル(Kader Asmal)教育相(当時)が謝罪した。

新政権になってからは、表現の自由やエイズ防止のために尽力した。2006年には自宅に押し入り強盗が入ったが、住み慣れた一軒家を離れることはなかった。2年くらい前、ヴィッツ大学で行われた講演会では、ANC政権への幻滅と批判が印象に残った。

エッセイ集『Telling Times: Writing and Living, 1950-2008』の中で、「ジャーナリストが聞かない質問」を想定し自問自答している。回答から浮かび上がるのは、いつも毅然としていた外での顔ではなく、真摯で夫思いで御茶目な普段着の姿だ。

あなたの人生で欠けているものの中で、一番大切なものは何ですか?
アフリカの言葉を学ぶことなく、アフリカに住んできたことです。そのため、私が真剣に関わり、その一部でもある南アフリカの文化の、大切な部分を知ることができないのです。

人生最高の褒め言葉は?
何年も昔に農場でキャンプした時のことです。丈の高い草の中を歩いていたら、マダニに噛まれてしまいました。それでブツブツ言っていたところ、とても魅力的とはいえないお爺さんの農夫がこんなことを言ってくれたのです。「ワシがマダニだったら、やっぱりあんたを噛むよ。」

作家として最も屈辱的だったのは?
息子が8歳の頃、友人にお母さんの職業を聞かれたのです。そしたら、「タイピスト」だよって。私はたまたま庭にいて、息子の評価を窓越しに聞いてしまったのです。確かに、その時小説か何か書いていて、書斎でタイプしていたことは事実ですが・・・。

スウェーデン国王からノーベル賞を授与されましたね。それが人生最高の瞬間ですか?
人生最高の瞬間ですか? レインホルドと結婚したばかりの頃、ロンドンでパーティーに出席しました。夫が友人を探しに隣室へ行き、私は知らない女性の傍に立っていました。夫が部屋の入り口まで戻って来た時、その女性が私の方を向いて、興奮してこう言ったのです。「あの素敵な人は誰かしら?」 「私の夫なの」と答えたのが人生最高の瞬間です。

執筆なさる時、想像力を増すために、薬物とかマリファナとか酒などの力を借りますか?
一日の執筆が終わって数時間後に、スコッチウィスキーをダブルで飲むだけです。

(参考資料:2014年7月18日付「Mail & Guardian」など)

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