二人きりになった時、男性は言った。
「こんにちは。トレチコフという者です。あなたの絵を描きたいのですが。」
ウラジミール・トレチコフ(Vladimir Tretchikoff)という画家だった。
トレチコフは1913年12月26日、シベリアの、とある町で、8人兄弟の末っ子として生まれた。家庭は裕福だった。1917年のロシア革命時、トレチコフ一家はロシア移民が多かった中国のハルビンに逃れる。ハルビンで16歳まで学校に通い、また市内のロシアオペラハウスで風景画家として働く。絵は独学という。
上海の広告・出版会社で働いていた時、やはりロシア人移民の女性と恋に落ち結婚。ふたりはシンガポールに移る。太平洋戦争勃発後は、英情報省のプロパガンダアーチストとして働いた。
1942年2月、乗っていた南アフリカ行きの脱出船が日本軍に爆破される。生き残った42人がボートを漕いで辿り着いたスマトラは、既に日本軍に占拠されていた。そこから19日かけて、更にジャワまでボートを漕ぐ。しかし、ジャワも日本軍の手に落ちており、トレチコフは捕虜となった。3か月間独房に収容されたものの、「ロシア人だから釈放されるべき」と主張し釈放され、戦争が終わるまでバタビア(現在のジャカルタ)で日本人アーチストの元で働く。
1946年、南アフリカへ。別の船で到着していた妻子と4年ぶりに再会し、そのまま南アフリカに住みつくことになった。
1950年、モニカさんが出会ったトレチコフはまだ有名ではなかった。しかし、モニカさんはたまたま数日前に、新聞でトレチコフについての記事を読んでいたので、モデルになることを了解する。
独身時代のモニカさん(BBC) |
トレチコフの奥さんの青いガウンを着る。とても美しい絹のガウンだった。モデル代は6ポンド5シリング。
だが、完成した絵を目にして、モニカさんは大ショックを受ける。青いガウンが黄色になっているのは良いとしても、自分の顔が緑色になっていたからだ。「ホラー映画のモンスターみたい!」
トレチコフ 『中国人の少女』 |
トレチコフは画家として大成功し、ピカソに次ぐという説もあるくらい大儲けをするが、経済的成功の理由はオリジナル絵画の売れ行きではなく、時代を先取りして印刷した安い複製画にある。1950年代から1960年代にかけて、トレチコフの安価な複製画は世界中でバカ売れした。特に、モニカさんを描いた『中国人の少女』(Chinese Girl)は20世紀で最もよく売れた複製絵画のひとつと言われている。
制作中のトレチコフ |
モニカさんも一躍有名人になった。町を歩くと人が振り返る。モデルの依頼も数多く寄せられる。しかし、モニカさんは名声を使ってどうこうすることもなく、モデルとして二度と働くこともなく、1953年に結婚し、モニカ・ポン・ス・サン(Monika Pon-Su-San)となリ、世間から忘れ去られた。5人の子供に恵まれたものの、必ずしも幸せな結婚ではなく、まもなく離婚。シングルマザーとして一家を支えるため、事務員の傍ら洋裁の内職に励む。その後、生涯の伴侶エンリコ・タバッソ(Enrico Tabasso)さんに巡り合い、モニカさんが亡くなるまで44年を共にした。
一方、『中国人の少女』は世界中で愛し続けられ、デイヴィッド・ボウイ(David Bowie)やザ・ホワイト・ストライプス(White Stripes)のミュージックビデオ、モンティ・パイソン(Monty Python)のテレビ番組、ヒッチコック映画(1972年の『フレンジー』)などに登場している。オリジナル絵画は2013年3月20日、ロンドンのオークションにて350万ドルで競り落とされた。買い手はイギリス人の宝石商ローレンス・グラフ(Laurence Graff)。
晩年のモニカさんと『中国人の少女』(Times Live) |
トレチコフは2006年8月26日、ケープタウンで亡くなった。享年92歳。モニカさんがジョハネスバーグで亡くなったのはつい最近、2017年6月14日のことだ。享年86歳。画家もモデルも概ね幸せな、長い人生をエンジョイしたようだ。
【参考資料】
"I was the Chinese Girl in Tretchikoff's painting" BBC(2013年5月7日)
"Chinese girl immortalised by Tretchikoff has died" Times Live(2017年6月28日)など
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