西アフリカのマリ共和国で、クーデターが起こった。同じアフリカ大陸にあるのに、南アフリカの人にとって、マリは殆ど関心のない遠い国。ましてや、日本人にとっては地球の果てだろう。
元フランス領。海を持たない内陸の国。人口1450万人。農業を主な産業とする貧しい国だ。1960年独立。腐敗した軍事政権が1968年から続いていたが、1991年の「三月革命」(March Revolution)で学生、労働組合員などを中心とした国民が立ち上がる。最初は大統領の命令を聞いていた軍だったが、自国民に銃を向けることを拒否する兵士が増加し、遂に軍が大統領を逮捕。翌1992年、民主的な多数政党制国家に生まれ変わった。それ以来、アフリカでも政治的社会的に最も安定した国のひとつとされてきたが・・・。
3月22日、下士官のグループが大統領府を占拠。政府を解散させ、憲法を停止したのだ。
ところが、今日、知り合いのデイヴィッド・フィッグ(David Fig)氏がフェイスブックに投稿。マリの首都バマコ(Bamako)にいるという。人間とは現金なもので、急にマリが身近になり、動向が気にかかり始めた。
デイヴィッドは環境問題、特に核の専門家だ。1994年、南アフリカの第一回民主総選挙の直前、アフリカ民族会議(ANC)が主催した核問題のコンフェレンスで知り合った。
以下、デイヴィッドの投稿(原文は英語)。
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クーデターのせいで、マリのバマコに閉じ込められている。事態が「正常化」し、空港が再オープンするのを待つだけの、うんざりするような数日。他の人と一緒にいるお蔭で、正気を保っている。
ヒッポドローム地区にある赤茶色の家族経営のホテルで、様々な国籍の人々がお互いに支え合っている。全員、ウラン採掘と健康と環境に関する会議に出席するためバマコにやって来た。
会議には、マリ南部の農村からの人々も参加していた。カナダの小さな鉱山会社によるウラン鉱山開発で、居住地が脅かされている人々だ。この会社はフランスのアレヴァ(Areva)といった大企業の、知られざる手先かもしれない。
会議の後、少人数でこの村を訪問し、探鉱やサンプリングを実際に見た。探鉱現場に囲まれた村もいつくかある。ある村など、共同台所から僅か10メートルのところで探鉱が行われていた。
訪問した村は、村を挙げて採鉱に反対している。地域住民が反対組織を設立し、独自のラジオ局を立ち上げた。この地域の村長全員が嘆願書に署名した。夜間に教育プログラムを実施するため、発電機まで設備している。
村の貧困は筆舌に尽くし難い。住民は、編み枝と漆喰で作られた円形の小屋に住んでいる。煉瓦造りの建物は、公共のオフィスだけだ。採鉱によって水、作物、動物が汚染されるのではないかと、人々は心配している。
首都に戻る途中、問題が起こった。兵士が反乱を起こしていた駐屯地、カティ(Kati)を通らなければならなかったのだが、軍が四輪駆動車を没収するという噂を聞いて、運転手たちが先に進むことを拒否したのだ。
私たちはバスに押し込まれた。私たちを乗せた、今にも壊れそうなバスは、検問や暴力沙汰を避けるため迂回路を取り、墓場や朽ち果てたコンクリートの住宅地域を通って、何とかバマコへ辿り着いた。
バマコに到着したら、クーデターが進行中だった。ラジオ局が占拠され、空港は閉鎖されていた。(どのみち一か月もしないうちに任期が切れるはずだった)大統領は罷免され、夜間外出禁止令が出ていた。
前に泊まっていたホテルが、また受け入れてくれた。それ以来ここに留まり、外の撃ち合いを免れている(私は間一髪のところで命拾いした)。
この界隈はゴーストタウン状態ではなくなってきた。スーパーマーケットも営業を再開した。交通も正常に戻っている。昨夜など、夜間外出禁止令を潜り抜け、ニジェール川の土手でビールを飲んだ。
中庭に切手サイズの小さなプールがあるお蔭で、なんとか40度(夜は30度)の熱気をしのいでいる。木々、食料、飲み物、浴室、それにシャワーがある。ヤモリもいる。私たちはセミナーを開催したり、スクラブルで遊んだり、一緒に食事を作ったり、家族や友人や旅行代理店や大使館に連絡を取ったり、お互いを楽しませたりしている。監獄としては、なかなかオツなものだ。
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