2011/05/27

「寿司キング」鉱山で大儲け 黒人優遇政策の効果的活用法?

高級クラブ「ZAR」のオーナー、ケニー・クネネ(Kenny Kunene)の名前が初めてマスコミを賑わしたのは、2010年10月末。ジョハネスバーグで行った40歳の誕生パーティーが物議を醸しだしたのである。

70万ランド(840万円)使ったパーティーの呼び物は「NYOTAIMORI」。そう、女体盛り。ビキニ姿の黒人モデルのお腹に、スシを乗せてゲストに振舞ったのだ。

女性団体、人権団体、メディアなどに叩かれても「良い宣伝」としか受け止めなかったようで、今年1月末にはケープタウンでゲスト4000人の大パーティーを開催。今度は白人モデルの裸体にスシを乗せて、更なるヒンシュクを買った。

詐欺容疑で10年間服役し、数年前までミーティングに行くのにヒッチハイクしていた貧乏人が、どうやって短期間に、ポルシェやランボルギーニなど複数のスポーツカーを所有する大金持ちになったのか。

2011/05/22

アントン・ハメール、リビア軍に射殺される

リビアで取材していたフリーランスカメラマン、アントン・ハメール(Anton Hammerl)が4月5日消息を絶った。

1969年12月12日、ジョハネスバーグ生まれ、ジョハネスバーグ育ち。詮索好き、動物好きの子供だった。将来獣医になるだろうという周囲の期待を裏切って、写真家になる。「詮索好き」が「動物好き」に打ち勝ったのだろう。

『スター』紙のカメラマンをしている時、同僚のジャーナリスト、ペニー・スクラジ(Penny Sukhraj)と恋に落ち結婚。報道写真よりも、クリエイティブな肖像写真やアバンギャルドな作品で知られている。

2011/05/19

マンデラはANCに投票 娘が異例の声明発表

5月18日に全国一斉地方選挙が行われた。ネルソン・マンデラはその2日前、自宅で投票したのだが、本日、マンデラの娘、プリンセス・ゼナニ・ドラミニ(Princess Zenani Dlamini)がマンデラ財団を通じて、異例の声明を発表した。マンデラがANCに投票したというのである。

そんなこと今更言われなくても。。。それに、誰に投票したかは秘密のはず。。。

ともあれ、声明の全文を訳して記載する。

2011/05/17

一日ひとつ マンデラ格言

ネルソン・マンデラの語録「Nelson Mandela By Himself: The Authorised Quotations Book」が6月に発売される。それを記念して、マンデラ財団では、5月14日からマンデラの誕生日7月18日まで、マンデラの言葉を一日にひとつ、HPで流す予定。

例えば、今日の言葉。

「私は独立心に溢れた友人が好きだ。問題をあらゆる角度から眺めさせてくれるから。」(I like friends who have independent minds because they tend to make you see problems from all angles.)

1975年の言葉だそうです。

2011/05/11

「ジム学」の終焉 ジャズミュージシャン、ジム・ンガワナ、逝く


2010年7月17日ニロックス財団でのコンサート
南アフリカのジャズミュージシャン、ジム・ンガワナ(Zim Ngqawana)が5月10日の朝、亡くなった。(ズィムと発音する方が近い。)前日、リハーサル中に脳卒中に見舞われ、そのまま帰らぬ人となり、イスラム教の教えに基いて24時間以内に埋葬された。享年51歳。

ンガワナは1959年12月25日、ポートエリザベス近くのタウンシップで、5人兄弟の末っ子として生まれた。家は貧しく、10代の頃は犯罪にも手を染めたという。

21歳の時、ひょんなことからフルートを手にしたのがきっかけで、独学でフルート、サックス、ピアノを学ぶ。高校を中退したため、大学入学の資格がなかったが、その才能に気づいた白人女性のおかげで、ローズ大学に入学。その後、ナタール大学でジャズを学び、遂には奨学金を得て、アメリカのマサチューセッツ大学に留学。

奨学金のスポンサー、マックス・ローチ(Max Roach)を師と仰ぐ。

2011/05/10

治安相の妻 麻薬密輸で12年の実刑判決

2008年5月21日、31歳になって間もないテサ・ビアトガ(Tessa Beetge)は、希望に満ちてジョハネスバーグの空港を発った。幼い子供ふたりを抱えて離婚し、失業中だったテサに、かつての長年の隣人で、前年再会したシェリル・クウェレ(Sheryl Cwele)が職を紹介してくれたのである。

ロンドンで2週間働くだけで、2万5千ランド(30万円)の報酬。交通費も払ってもらえる。高卒のテサにとっては美味しすぎる話だが、シェリルの夫シヤボンガ・クウェレ(Siyabonga Cwele)は与党ANC(アフリカ民族会議)の大物で、諜報相という重職にある。シェリル自身も市役所の部長クラス。テサの出発前には、両親がシェリルに会いに市役所へ出向いた。疑う理由はない。メールやSMS(携帯電話の短いメッセージ)も優しい言葉と愛情に溢れている。

こんなに親切で、面倒見が良く、コネのある「おばさん」に巡り合えたなんて、ラッキー!と内心思ったことだろう。

ところが、ロンドンに向かうはずだったテサは何故かニューヨーク経由で南米へ送られ、6月13日サンパウロ空港で逮捕される。手荷物から10キロのコカインが見つかったのだ。

2011/05/05

蘇った! マンデラ法律事務所

チャンセラー・ハウス(Chancellor House)といえば、1952年から1960年まで、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)とオリバー・タンボ(Oliver Tambo)の法律事務所が入っていたビル。ジョハネスバーグ市内のフォックス通りに面し、ジョハネスバーグ治安判事裁判所のすぐ近く。

建築家フランク・ジャレット(Frank Jarett)の設計により、1948年ごろ建てられた。当時のオーナーはインド人。ジョハネバーグ市内で黒人が借りることのできる、数少ないオフィススペースだった。

「マンデラ・アンド・タンボ法律事務所」でメッセンジャーをしていたノーマン・シェア(Norman Sher)さんは当時高校生。メッセージを出来るだけ早く届けようとして狭い階段を駆け下り、何度も転げ落ちたという。そんなシェアさんをマンデラは「ハーシー」(Haasie)と呼んで可愛がった。アフリカーンス語で「ウサギ」を意味する。シェアさんは今でもこの思い出を大事にしている。

「マンデラとタンボがこの国の将来にとって、これほど大きな役割を果たすことになろうとは、当時思ってもみなかった」というシェアさん。大学卒業後、弁護士になった。