2011/05/22

アントン・ハメール、リビア軍に射殺される

リビアで取材していたフリーランスカメラマン、アントン・ハメール(Anton Hammerl)が4月5日消息を絶った。

1969年12月12日、ジョハネスバーグ生まれ、ジョハネスバーグ育ち。詮索好き、動物好きの子供だった。将来獣医になるだろうという周囲の期待を裏切って、写真家になる。「詮索好き」が「動物好き」に打ち勝ったのだろう。

『スター』紙のカメラマンをしている時、同僚のジャーナリスト、ペニー・スクラジ(Penny Sukhraj)と恋に落ち結婚。報道写真よりも、クリエイティブな肖像写真やアバンギャルドな作品で知られている。

2010年世界報道写真大賞を受賞したジョディー・ビーバー(Jodie Bieber)は「芸術家の目をしていた」と語る。「この人に自分の写真を撮って欲しいと思わせる写真家だった。」

奇抜なでスタイリスティックなファッションでも知られ、高級ショッピングモールにデザイナー服の店を開いたこともある。「アントンがリビアに行くと聞いた時、前線のベストトレッサーになるだろうと思った」とは、写真家TJレモン(Lemon)の弁。

リビア政府が生存を発表してから、南アフリカではアントンの釈放を求める運動が高まった。集会、署名運動、果てはアントンTシャツの販売・・・。ラジオ、テレビ、新聞、ネットメディアは連日、アントンの安否を気遣う報道を続けた。


消息を絶って6週間後、リビア政府に拘束されていた4人のジャーナリストが釈放される。アメリカ人のジェームズ・フォウリー(James Foley)とクレア・ギリス(Clair Gillis)、スペイン人のマヌ・ブラボ(Manu Brabo)、イギリス人のナイジェル・チャンドラー(Nigel Chandler)。アントンはいない。リビア政府は「どこにいるか知らない」という。

そして、4月5日にアントンと一緒にいた3人が衝撃の発言。リビア政府軍に射殺されたというのである。

その日、フォウリー、ギリス、ブラボ、ハメールは砂漠で反乱軍のキャンプを取材していた。一夜を反乱軍と過ごす予定だった。そこに政府軍が現れる。あっという間に姿を消した反乱軍。政府軍が発砲する。ハメールの「ヘルプ!」にフォウリーが「大丈夫か?」 返事は「ノー」。

残りの3人は投降。政府軍の捕虜となった。フォウリーが最後に見たハメールは、砂漠に横たわって動かなかった。腹部から大量に出血していたという。

メディアと南ア政府は、「無事」を約束したリビア政府を「嘘つき」呼ばわり。しかし、人質釈放に尽力したリビア駐在のオーストリア大使ドロテア・アウアー(Dorothea Auer)は、リビア政府がハメールとチャンドラーを取り間違えた可能性を指摘する。

チャンドラーは全くのフリーランスなので、いなくなっても会社からの問い合わせはない。3、4か月ふといなくなることがしょっちゅうだったから、家族も友人も心配しなかった。つまり、拘束されたジャーナリスト4人、釈放の要求が寄せられたのも4人。釈放時にフォゥリーとチャンドラーをごっちゃにしたくらいのお粗末なリビア当局。チャンドラーとハメールを取り違えた可能性は高いという。しかも、チャンドラーはイギリス人、ハメールはイギリス在住。

真相はどうあれ、現在、「アントンの釈放」から「アントンの死体返還」に焦点を移し、キャンペーンは続いている。

ご冥福をお祈りします。

(参考資料:2011年5月22日付「The Sunday Independent」など)

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