2013/12/17

「犬のように扱われた。」 マンデラ国葬で疎外された地元住民

ネルソン・マンデラの国葬が12月15日、故郷のクヌ村で盛大に行われた。会場は葬式のために特別に建てらてた白いドーム。

(葬儀用ドーム「Eye Witness News」より)

参加を許されたのは、4500人の選ばれた人々。地元住民、親戚、そして、夜を徹して遠くから旅してきた一般市民は厳重な警備に遮られ、ドームやマンデラ邸に近づくことすらできなかった。

私たちは犬のように扱われました。

マンデラ邸から国道を挟んだ向かいに住み、マンデラの墓穴掘りを手伝ったマシコレ・カラコ(Masixole Kalako)さんは憤慨する。「こんなことはかつてありませんでした。墓穴まで掘った私たちが葬式に出席できないなんて。葬式が終わったら来ていいと言われましたが、残飯を犬にやるようなものです。」

やはりマンデラ邸の近くに住むボンガニ・クツケレ(Bongani Cuthukele)さんも同感だ。「すぐ傍に住んでいるのに、テレビで観なければならないなんて。」

マンデラ邸の掃除人ノズジレ・ガバンツィ(Nozuzile Gqabantshi)さん(73歳)は、自宅でしばらくテレビをつけていたが、じき家事に戻った。

「クヌ村の人々は取り残されたように感じています。まるでよそ者であるかのように。許可証がないと入れないと言われましたが、そんなこと誰も教えてくれなかった。」「村人の心はとても傷ついています。」

葬式には誰でも参加できる、というのが、この辺りでは当たり前なのである。

マンデラの従姉妹ノムンカゼロ・ムダイ(Nomnqazelo Mdayi)さん(72歳)も葬式に出席を許されなかった。

「私の母はマンデラ家出身です。マディバは生存中、私が家族の集まり全てに出席するよう、必ず取り計らってくれました。」「この一週間マディバの子供たちと一緒に喪に服して来ましたが、葬式の当日になって、取るに足らない人のように扱われ、とても辛く感じました。」

「マンデラが実の父」と信じるオニカ・モトア(Onica Mothoa)さんもプレトリア近くから旅してきたが、マンデラ邸に近づけなかった。親切な元MK兵士が許可証をくれた時は、これでマンデラ家の人々に会う夢が遂にかなう!と胸が高鳴った。しかし、この許可証はあなたのものではないと、警察に追い返されてしまった。(「最後まで父に会えなかったマンデラの「娘」 」)

「お父さんの葬式に出たかっただけなのです。お金とか、名声とか、遺産とかが欲しいわけじゃない。」

「エリート」のためのイベント、と地元民が呼ぶマンデラの葬式に、では誰が参加できたのか。

子供、孫などの近親は当然として、政治家、与党ANCメンバー、外国政府の代表、王室、有名人・・・。

年老いた無名の従姉妹は出席を許されず、アメリカのトークショーホスト、オプラ・ウィンフリー(Oprah Winfey)やイギリスの実業家、リチャード・ブランソン(Richard Branson)など超大金持ち超有名人はOKなんて、マンデラ家の跡取りマンドラやズマ大統領の人格がにじみ出ている。

マンデラ葬儀に出席するオプラ・ウィンフイーとリチャード・ブランソン(「News 24」から)

また、コサ族、そして中でもマンデラ家が属するテンブ族の伝統を大切にしたマンデラだったが、葬儀ではそのしきたりがないがしろにされた。

「マンデラの遺体は正午に埋葬される。」 司会のシリル・ラマポザ(Cyril Ramaphosa)は当日、そう説明した。「太陽が一番高く、影が一番短い時に埋葬する」のがコサ族の「しきたり」だからだ。ところが、実際は、一時間も早く埋葬してしまったのである。

コサ族とは関係ない私たちは「一時間くらい別にいいじゃん」と思うかもしれない。だが、伝統を敬う人にしてみれば、仏滅に結婚式を行う以上のインパクトがあるかもしれないのだ。「予定より早く式典が進行してしまいましたが、コサ族の伝統を重んじた故人の遺志を尊重して、埋葬は予定通り正午に行ないます」くらいラマポザに言って欲しかった。(テンブ族のダリンディエボ王の立場は、完全に無視されてしまったようだ。)

更に、マンデラの親友デズモンド・ツツ(Desmond Tutu)大主教が追悼式でも国葬でも、ないがしろにされた。

追悼式は主なお祈りでも演説でもなく、どうでもいいような挨拶を式典の最後にさせてもらっただけ。葬儀には当初、招待すらされていなかったという。ツツ大主教自身は当然出席するつもりで飛行機の予約をしていたところ、招待されていないことがわかり、急遽、予約取り消し。それがマスコミに取沙汰され、政府が慌てて招待したらしい。

映画『インヴィクタス』(Invictus)の原作を書いたジョン・カーリン(John Carlin)は、『ビジネスデイ』紙一面で、本来ならどちらの式典でも一番大切な演説を任されるべきツツがないがしろにされたことに対し、ジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)大統領を厳しく批判している。

「ジェイコブ・ズマ大統領がデスモンド・ツツ大主教に行なった仕打ちを考えると、大統領がここ数日繰り返してきたネルソン・マンデラへの賛辞は空虚で無意味に響く。」

「(ズマは)大統領の皮をかぶった、執念深い、みみっちい人間。自分をマンデラの後継者と呼ぶ権利もなければ、マンデラが率いた国民のリーダーとなる価値もない、偏狭な成り上がり者。」

「マンデラは心が広かった。マンデラは寛大だった。忠誠だった。大きな大きな魂を持っていた。今生きている南アフリカ人で、マンデラに匹敵する人物はツツしかいない。しかし、ツツは、ズマにしてみれば、罪を犯してしまった。民主的権利-マンデラがそのために闘ってきた権利-を行使して、アフリカ民族会議(ANC)を批判する、という罪を。だから、ツツは罰せられたのだ。ズマに心の広さはない。寛大さはない。忠誠はない。あるのは心の貧しさ。そして、感謝の心の完璧な欠落。」

ツツ大主教は1980年代、強大なアパルトヘイト政権に勇敢にも立ち向かい、身の危険を顧みず、批判を繰り返した。その功績により1984年、ノーベル平和賞受賞。

マンデラが27年の投獄生活を終え、最初の夜を過ごしたのはツツの家だった。ウィニーとの結婚生活が破たんした時、一番相談に乗ったのがツツだった。1994年、南ア史上初めての民主的な議会が開催された直後、待ち構えるケープタウンの人々に「出来立てホヤホヤの大統領、ネルソン・マンデラ!」とおおはしゃぎで紹介したのはツツだった。「虹の国」という言葉を最初に使ったのはツツだった。

しかし、ツツ大主教はANC政権にも手厳しかった。マンデラが大統領だった時ですら、元活動家の新米政治家が私腹を肥やすのに熱心な風潮を公然と批判。マンデラは激怒し、公の場でツツを攻撃。だが、マンデラの偉いところは、根に持たなかったこと。翌日にはまた仲の良いふたりだった。

ズマ大統領にその器量はない。

マンデラという「隠れ蓑」を失ったズマ大統領。あとには色あせた「虹の国」神話が残るばかり。

(参考資料:2013年12月16日付、17日付「The Star」、12月17日付「Business Day」など)

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