2013/12/15

最後まで父に会えなかったマンデラの「娘」

今日はネルソン・マンデラの「国葬」。故郷のクヌ村で執り行われる。

これに先立ち、マンデラ家内部で話し合いが行われ、「仲直り」することになった。取り持ったのは現マンデラ夫人、グラサ・マシェル(Graça Machel)。マンデラ家内部のねじれにねじれた関係を一時的にも修復できるのは、やっぱりこの人しかいない。

モザンビークの元解放運動家。同国独立後、教育文化相を務める。リスボン大学で学び、母国語のツォンガ語に加え、ドイツ語、フランス語、スペイン語、イタリア語、ポルトガル語、英語を流暢に話す才媛。政界引退後は、内戦が子供に与えた影響に関する国連報告書を作成するなど、人道的活動で知られる。サモラ・マシェル(Samora Machel)大統領の未亡人。世界史上ただ一人、2つの国のファーストレディになった。

しかし、マンデラ家の調停役を務めることができたのは、誰もが認める素晴らしい人柄のため、だけではない。そんなこと、プライドが高く、欲の皮が突っ張り、疑心暗鬼(ぎしんあんき)に憑りつかれたマンデラの子供たち、孫たちにとって、余り意味をなさないだろう。それよりも、「遺産争いのライバルではない」ことが大きいのではないか。

68歳という(やや)高齢の上、マンデラ姓を名乗っていない。(元妻ウィニーなど、離婚後、旧姓に元夫の苗字をくっつけ、「マディキゼラ=マンデラ」という苗字にしてしまった。マンデラの名前は捨てがたいのである。)そして、なによりも、マンデラとの間に子供がいない。将来的に莫大な収入となり得る「マンデラブランド」争奪戦の対抗馬ではないのである。

今回の「仲直り」が「恒久的平和」に結びつくか、「取りあえずの休戦」かは別として(恐らく後者だろうけど)、少なくともマンデラの葬式には、家族が一体となって臨むという。

ところで、マンデラを巡る人々の中で、ずっと気になっていた女性がいる。オニカ・ニェムベジ・モトア(Onica Nyembezi Mothoa)さん(66歳)。

3年前、「マンデラの娘」と名乗り出たものの、最後までマンデラに会わせてもらえなかった。

私生活のことは親しい友人にも固く口を閉ざしたマンデラだが、若いころは女性、それも魅力的な女性が大好き。(まあ、男なら普通のことだろう。)そして、背が高くチャーミングだったことから、かなりもてた。最初の妻エヴェリンと結婚してからも、何人かガールフレンドがいたらしい。(亡くなるまでマンデラのことを殆ど悪く言うことがなかったエヴェリンだが、1990年にマンデラが解放された際、「キリストの再来」に比したマスコミのコメントを聞いて、「妻子を置き去りにして、浮気していた男の、どこがキリストなのよ」と漏らしたとか。)

オニカさんは実の父が誰か知らされていなかった。しかし、小さい頃から、他人が自分を見る目が優しくないことを感じていた。成人してプレトリアで職探しをした時は辛かった。どの職場でも苛められ、そのうちクビになった。何故、白人が、そして中には黒人までも、自分を忌み嫌うのかわからず、よく泣いたという。

1968年、21歳の時、白人の男がオニカさんを指さしてこういった。「これはマンデラの子供だ。」

オニカさん(「The Witness」より)
マンデラに生き写しであることを、その時初めて知った。そして、オニカさんを実の子供同様に育ててくれた母の夫レヴィ・モトア(Levy Mothoa)さんが、ついに重い口を開いた。

「お前はマンデラの娘なんだ。」

オニカさんの母ソフィー・マジェニ(Sophie Majeni)さんはプレトリアで家政婦をしていた頃、マンデラに出会った。娘がマンデラの子供を宿していることを知った両親は仰天。マンデラといえば、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで有名になりつつあった解放運動家。政府の敵ナンバーワン。そんな人物と関係があることが公になったら、家族の生活・安全が脅かされる。

両親は妊娠したソフィーさんを隠した。オニカさんは1947年、プレトリアの西のアテリッジヴィル(Atteridgeville)で生まれる。

プレトリアで辛い生活を送ったオニカさんはその後ケープタウンに移るが、どこに行っても嫌がらせはついて回った。のち結婚。現在、プレトリア近くのタウンシップ、ソシャングヴェ(Soshanguve)で、子供や孫に囲まれ、年金生活を送っている。

母親のソフィーさんは2003年に死亡。最後までオニカさんの父親について話すことを拒否した。

オニカさんがマンデラにコンタクトを取ろうとしたのは、ソフィーさんが亡くなってから。年金生活者の身なので、何か月もかけてお金を貯めては、ジョハネバーグのマンデラ財団やクヌ村のマンデラ邸を訪れた。しかし、なんのコネもない老女。マンデラ財団では門の中にすら入れてもらえない。

クヌ村でも同じこと。村の長老ムバマシャ・マジョラ(Mbamatshe Majola)さんは、「自分はマンデラの娘」というオニカさんの言い分を信じるという。「一目見ればマンデラの血縁なのは明らか。まるでマンデラ本人を見ているようだ。」 しかし、マンデラ家は固く門を閉ざしたままだ。

マンデラに会おうと孤独な努力を続けたオニカさんが、自分のことを世間に公言することにしたのは、2009年、ムポ・プレ(Mpho Pule)さんが亡くなってから。「自分も同じことになるのでは」と恐れたのだ。

お金などいらない。自分のルーツを知りたいだけ。実のお父さんに一度でいいから会いたい」とDNA検査を申し出る。(DNA検査するところまでは、結局、話が進まなかった。)

ムポ・プレさんも、「自分はマンデラの娘」と信じていた。

ムポさんの母親セイパティ・モナカリ(Seipati Monakali)さんがマンデラに出会ったのは、1945年、ケープタウンでのこと。ムポさんが生まれて3か月後、セイパティさんはブルームフォンテインに移り住み、その後その地でデイヴィッド・イトレン(David Itholeng)さんと結婚。3人の子供をもうけた。セイパティさんは1992年、ムポさんに実の父親の正体を告げることなく亡くなる。

ムポさんが小さい頃、実の父親がムポさんの祖母に手紙やお金を送ってくれていた。「父親」が誰かを知ったのは1998年のこと。85歳になっていた祖母ウィンフレッド・ノシポ・モナカリ(Winfred Nosipho Monakali)さんに懇願し、漸く教えて貰えた。

「お前の父親はネルソン・マンデラだよ。」 ムポさんは既に50代半ば。孫もいた。

それ以来、ムポさんは何度もマンデラ財団に電話するが、ケンもほろろ。とうとう友人で小学校の先生をしているマーティン・マッケンジー(Martin McKenzie)さんに助けを求める。

マッケンジーさんは2005年から計13通の手紙をマンデラ財団に送る。最初は胡散(うさん)臭がってた財団だが、とうとう2009年8月、「調査を開始する」との連絡を受けた。

マンデラ財団から「ムポさんが提供した情報を調べた結果、間違いがなさそうだ。マンデラ家に知らせた」との手紙が届いたのは2009年10月。しかし、ムポさんはその一か月前、心臓発作でなくなっていた。。。

マッケンジーさんはマンデラとウィニーの娘ジンジ(Zinzi)から、「今後は両家で直接話す。あなたは手を引いてくれ。メディアにはコンタクトするな」との連絡を受ける。しかし、ジンジをはじめとするマンデラ家は、連絡を取ろうとするムポさんの家族を無視し続けた。

ムポさんがマンデラに会おうとしてから既に12年。それまで外部には一切告げなかったが、遂にマッケンジーさんとムポさんの子供たちは『メール&ガーディアン』紙に経緯(いきさつ)を話した。

ムポさん(左)とマンデラ(「Mail & Guardian」より)
そのことを耳にしたオニカさんは「同じ目に遭いたくない。生きているうちにお父さんに会いたい!」と思い、万策尽きてメディアに連絡。

メディアに取り上げられてからは話が早かった。マンデラ財団が調査を行ない、「後は家族の問題だから」とマンデラ家にフォローアップが委ねられることになった。

しかし、マンデラ家は無視。

今年6月、マンデラが入院してから、プレトリアの病院にも行った。ANC女性同盟(Women's League)のメンバーたちが、「マンデラの回復を祈りに一緒に行こう」と誘ってくれたのだ。

病院に着いたオニカさんに、病院の警備員は済まなそうにこう言った。「あなたはマンデラに生き写し。しかし、家族以外誰も入れてはいけないという命令を受けているんだ。」 病院の門の外で数時間待ったが無駄だった。

「お父さん」が亡くなったとの電話は、マンデラの親戚からあった。

「悲しみで心が打ち砕かれました。お父さんが亡くなったと聞いて、昨夜は一睡もできませんでした。一度も会わないまま亡くなったので、涙が止まりませんでした。私は故郷がない人間のようなものです。自分のルーツを知ることはとても大切なことですが、私にはその機会が永遠に失われてしまいました。」(2013年12月6日付「The Star」)

マンデラが亡くなって一週間余り経つ。有名人、一般人にかかわらず、マンデラはこんなに人にあっていたのか!とびっくりするほど、ラジオやテレビや新聞で「マンデラに会った時の思い出」を語る人が後を絶たない。しかし、マンデラを父と信じ、マンデラ財団による調査も済んでいたムポさんとオニカさんは、マンデラ家の反対(黙殺)により、最後までマンデラに会えなかった。

オニカさんはプレトリアの大統領府に安置されたマンデラの遺体に会いに行っただろうか。オニカさんが誰にも咎められずマンデラに会えた、一生に一度の機会だった。

今回、色々リサーチして強く感じたこと。

若き日のマンデラの浮気相手だった女性たちは、ひとりとして表に出ていない。「マンデラに遊ばれた」とか「女癖の悪い奴だった」とかいう悪評どころか、「私はマンデラの愛人だった」とか「マンデラの子供を産んだ」とか、誰一人名乗りをあげていない。

「絶対マンデラの彼女だった」と取り沙汰されている女性たちの中には、南ア解放運動に大きく貢献し、歴史に名前が残る者もいるが、メディアに追求されても、マンデラと付き合っていたことを否定するか、または沈黙を続けている。無名の、そして貧しい人なら猶更(なおさら)、「タブロイドに売ってお金を儲けよう」と考えても、今のご時世、不思議ではない。

女性たちがそうしなかったのは、やはりマンデラの人柄ではないか。たとえ一時の浮気でも、相手の女性を大切に扱い、「自分は遊ばれた」と感じさせなかったのではないか。「この人の名誉を守ろう」と決意させる偉大さを、女性たちはマンデラに感じたのではないか。

それにしても、マンデラ一家。ムポさんとオニカさんを黙殺したのは、彼らのプライドと欲の皮のせいだろうな。子供や孫が大勢いる、それも単なる浮気相手の子供を認知するなんて、彼らにとっては問題外だったろう。

まだマンデラが元気だったら、そしてマンデラ本人の耳に入っていたら、たとえこっそりとでも、ふたりに会っていたという気がする。「苦労をかけて済まなかったね」と、あの大きな腕で抱き締めていたような気がする。

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