2012/04/29

18歳になった南アの民主主義を再考する デズモンド・ツツ大主教のメッセージ

2005年取材時。インタビューはお祈りから始まる。
1994年4月27日、南アフリカで史上初めて、全人種が参加した総選挙が実施された。翌年から、4月27日は「自由の日」(Freedom Day)として、国民の祝日に制定された。

あれから18年。南アの歴史に残る画期的な日に生まれた赤ちゃんは18歳の誕生日を迎え、選挙権を持つようになった。

「自由の日」は一般国民にとって歴史的意味を失い、単なる休日のひとつになっている。5月1日が「労働者の日」(Workers' Day)で祝日だから、大型連休の絶好のチャンス。今年の場合、4月30日の月曜日に休暇を取れば5連休だ。

しかし、アパルトヘイトに反対した功績で、1984年にノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ツツ(Desmond Tutu)大主教は、南アの民主主義を再考する良い機会、という。

以下、4月29日付「サンデータイムズ」紙の一面に掲載された、ツツ大主教のメッセージを全文訳す。

2012/04/23

ズマ大統領 また結婚 「現役妻」は4人

4月12日に70歳になったばかりの、ジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)南アフリカ大統領がまた、また、また!!! 結婚した。4年間で3人目。お相手はグロリア・ボンギ・ンゲマ(Gloria Bongi Ngema)さん。

第一号ンコサザナ
ズマ大統領の最初の妻は、ンコサザナ・ドラミーニズマ(Nkosazana Dlamini-Zuma)。元保健相、前外相、現内務相。1972年に結婚。子供4人。

翌1973年にはゲートルード・シザケレ・クマロ(Gertrude Sizakele Khumalo)さんと結婚。妻第一号と離婚したわけではないので、妻の数が2人なった。このふたりには、子供はいない。

1976年、ケイト・マンチョ(Kate Mantsho)さんが妻第三号になり、5人の子供をもうける。

妻3人の状態が20年以上続いた後、ンコサザナと1998年に離婚。そして、2000年、ズマの女癖の悪さその他に絶望し、ケイトが自殺。妻の数は一人に戻った。

第二号シザケレ
その後も女性関係は色々あったようだが、結婚ラッシュが始まったのは、与党アフリカ民族会議(ANC)の党首に選ばれ、次期大統領になることが確定してから。

2008年にノムプメレロ・ンツリ(Nompumelelo Ntuli)さん(子供3人)、2010年にトベカ・マディバ(Thobeka Madiba)さん(子供1人)。今回のグロリア・ンゲマさん(既に子供1人)で、「現職妻」の数4。妻第四号、第五号、第六号はいずれも30代。

正式の妻の子供の数、4+0+5+3+1+1=14人。

それ以外にも、ミナ・ショングウェ(Miah Shongwe)さんとの間に1977年生まれたエドワード(Edward)。2年前、ソノノ・コーザ(Sonono Khoza)さんとの間に生まれたタンデキレ(Thandekile)。リチャーズベイ在住の女性との間に娘ジャブリレ(Jabulile)。別の女性との間に生まれた娘ブリジット(Bridget)は、トベカ・マディバが育てている。ジョハネスバーグ在住の女性との間に3人。ピーターマリッツバーグ在住のプリシラ・ノンクワレコ・ムフロンゴ(Priscilla Nonkwaleko Mhlongo)さんとの間に娘2人。。。妻の子供と併せて、これで23人。。。

2012/04/20

「捨て犬を救え!」 世界を飛び回る雑種犬「オスカー」

動物保護団体「SPCA」(Society for the Prevention of Cruelty to Animals)ケープタウン支部を訪れた、元プロゴルファーのジョアン・レフソン(Joanne Lefson)さん。雑種犬の「オスカー」(Oscar)にひと目惚れした。聞けば、明日、安楽死することになっているという。2004年のことだ。

オスカー君と暮らし始めたジョアンさんは考えた。世界に4億7500万匹いると推定されるホームレス犬のために、ひと肌脱げないものだろうか? 元気にはしゃぎまわる、愛するオスカー君だって、ジョアンさんの到着がもう一日遅ければ、この世にいなかったのである。

準備期間16か月を経て、2009年5月2日、世界伝道の旅に出かけた。メッセージは、「施設に収容されている犬を養子にしよう!」 資金は自宅を売って調達した。

ケープタウンのシグナルヒルに立つオスカー君の勇姿
ジョアンさんとオスカー君は9か月かけて、世界5大陸31か国、延べ15万キロ(地球2周分!)を旅する。名付けて「世界ウルフツアー」(World Wolf Tour)。

2012/04/16

財団幹部が語るネルソン・マンデラ

オフィシャルの写真。ちょっとカッコよすぎる~。
ヴァーン・ハリス(Verne Harris)の講演会に行ってきた。ネルソン・マンデラ財団(Nelson Mandela Foundation)「記憶と対話センター」(Centre for Memory and Dialogue)の長。プロの「アーキヴィスト」だ。

アーキヴィスト(archivist)、って?

英和辞典には「記録・公文書保管人」「記録・文書係」「文書館員」などどあるが、どうも職業っぽく聞こえないので、英語をそのまま使う。「歴史的文書や記録を収集、整理、保管することを職業とする人」のことだ。

ヴァーン・ハリスは国立古文書館の副館長を務め、「真実と和解委員会」(TRC: Truth and Reconciliation Commission)などでアパルトヘイト時代の文書整理に当たった。「アメッド・カスラーダ財団」(Ahmed Kathrada Foundation)、「言論の自由研究所」(Freedom of Expression Institute)などの理事会メンバー。小説家でもあるらしい。

マンデラ文書に関わり始めたのは2001年。2004年から、マンデラのアーキヴィストを務め、マンデラ文書だけでなく、マンデラ個人にも深く関わることになる。『ネルソン・マンデラ 私自身との対話』(Conversations with Myself)の編集チームも率いた。(その節はお世話になりました!)

マンデラは「偉人」「聖人」の地位に奉られる一方で、その名前はあらゆる人に利用されている、とヴァーンは感じている。「マンデラ産業」と呼べるほど、様々なマンデラ本やマンデラグッズが巷に氾濫しているが、「人間」としての、また「指導者」としてのマンデラに対する批判は殆どない。

2012/04/12

犯人は警察官 ハイジャック被害者、びっくり

先週の木曜日のことだ。ソエトに住む姉妹、パレサ・ラムラ(Palesa Lamula)さんとボントレ・セベコ(Bontle Sebeko)さんは夜7時50分頃、酒屋を出て、止めておいたトヨタ・カローラへ向かった。

車の傍にはジーンズ姿の男がふたり。身だしなみがよく、顔を隠す風もない。ところが、ふたりはいきなり銃を取り出した。

パレサさんは車の中に押し込まれた拍子に、車のキーを座席の間に落としてしまった。男たちは銃を頭に突きつけたまま、姉妹をこづいたり、なぐったり。そうこうしているうちに、ボントレさんが手に持っていた、買ったばかりの酒がこぼれ、ひとりの男のジーンズにかかったてしまった。

ようやくキーを見つけたパレサさん。男たちはカローラに飛び乗って姿を消した。

姉妹はすぐさま、家族と共に最寄りのモロカ警察署に向かった。警察署の駐車場で、身だしなみの良い、ジーンズをはいた二人組が近づいてきた。ひとりのジーンズは濡れている。なんと、走り去ったばかりのハイジャック犯人! 男たちは警官だと名乗った。

2012/04/09

ツイッターでハイジャック被害者救出

4月7日(土)夜9時頃、ジョハネスバーグの北東、ハニーデュー(Honeydew)地域を運転していた男性が、武装した2人組にハイジャックされた。乗っていたのは「ゴルフ3」。フォルクスワーゲンの「ゴルフ」や「ポロ」は何故か人気があり、盗難の対象になりがち。「ゴルフ」と「ポロ」しか狙わない車両窃盗シンジケートもある。

犯人は男性をトランクに押し込め、走り始めた。

誰でも持っている携帯電話をこの男性も当然持っていることに、犯人たちは思い当たらなかったようだ。それが男性を救った。

車のトランクから、男性はガールフレンドにSMSを送った。ガールフレンドは直ちにツイート。9時11分のことだ。ガールフレンドのメッセージを「リツイート」(RT:retweet)=「再投稿」したのは7人。そのひとり、タニシャ・レディ(Tanisha Reddy)さんは「ピッグスポッター」(PigSpotter)にツイートした。

「ピッグ」=「ブタ」とは警察のこと。「スポッター」は「見つける人」。「ピッグスポッター」は、スピード違反の取り締まりや交通検問の情報を流すツイッターなのだ。10万9000人以上のフォロワーを持つ。

雪だるま式に情報が広がった。面識のない人々が一致団結して、ナンバープレート「DSS031GP」、エビ茶色のゴルフを見つけようと必死になった。警備会社や車両トラッキング会社もツイートに参加。

2012/04/04

マンデラ家の秘蔵レシピ マンデラの料理人が初公開!

ネルソン・マンデラのために、20年以上料理を作って来たコリスワ・ンドイヤ(Xoliswa Ndoyiya)さんが、秘蔵レシピを本にして出版した。その名も『ウクチャ・クワセカヤ』(Ukutya Kwasekhaya)。コサ語で「家庭料理」を意味する。

東ケープ州のクイーンズタウン(Queenstown)生まれ。少女時代、お母さんとお祖母さんの台所で、トウモロコシや豆や、庭で採れた新鮮な野菜などを使っての家庭料理を学んだ。

成人してからジョハネスバーグに出てきて、ロストン家でメイドとして働く。その間、料理への愛に再び目覚め、ユダヤ系老人ホームで料理人となる。シェフになるコースも取った。そうこうしているうちに、マンデラの使用人だった同郷のグロリア・ノカンダ(Gloria Nocanda)さんが、同じコサ族のマンデラに、コリスワさんを料理人として推薦してくれたのだ。

1990年代末、マンデラ本人と面接。マンデラは優しく微笑みながら言った。「料理が得意だそうですね。私の家族のために、コサ族の料理を作ることができますか?」

「ウクチャ・クワセカヤ」(家庭料理)が作れる、と答えたたところ、その場で採用が決まった。