5月18日に全国一斉地方選挙が行われた。ネルソン・マンデラはその2日前、自宅で投票したのだが、本日、マンデラの娘、プリンセス・ゼナニ・ドラミニ(Princess Zenani Dlamini)がマンデラ財団を通じて、異例の声明を発表した。マンデラがANCに投票したというのである。
そんなこと今更言われなくても。。。それに、誰に投票したかは秘密のはず。。。
ともあれ、声明の全文を訳して記載する。
2011/05/19
2011/05/17
一日ひとつ マンデラ格言
例えば、今日の言葉。
「私は独立心に溢れた友人が好きだ。問題をあらゆる角度から眺めさせてくれるから。」(I like friends who have independent minds because they tend to make you see problems from all angles.)
1975年の言葉だそうです。
2011/05/11
「ジム学」の終焉 ジャズミュージシャン、ジム・ンガワナ、逝く
![]() |
| 2010年7月17日ニロックス財団でのコンサート |
ンガワナは1959年12月25日、ポートエリザベス近くのタウンシップで、5人兄弟の末っ子として生まれた。家は貧しく、10代の頃は犯罪にも手を染めたという。
21歳の時、ひょんなことからフルートを手にしたのがきっかけで、独学でフルート、サックス、ピアノを学ぶ。高校を中退したため、大学入学の資格がなかったが、その才能に気づいた白人女性のおかげで、ローズ大学に入学。その後、ナタール大学でジャズを学び、遂には奨学金を得て、アメリカのマサチューセッツ大学に留学。
奨学金のスポンサー、マックス・ローチ(Max Roach)を師と仰ぐ。
2011/05/10
治安相の妻 麻薬密輸で12年の実刑判決
2008年5月21日、31歳になって間もないテサ・ビアトガ(Tessa Beetge)は、希望に満ちてジョハネスバーグの空港を発った。幼い子供ふたりを抱えて離婚し、失業中だったテサに、かつての長年の隣人で、前年再会したシェリル・クウェレ(Sheryl Cwele)が職を紹介してくれたのである。
ロンドンで2週間働くだけで、2万5千ランド(30万円)の報酬。交通費も払ってもらえる。高卒のテサにとっては美味しすぎる話だが、シェリルの夫シヤボンガ・クウェレ(Siyabonga Cwele)は与党ANC(アフリカ民族会議)の大物で、諜報相という重職にある。シェリル自身も市役所の部長クラス。テサの出発前には、両親がシェリルに会いに市役所へ出向いた。疑う理由はない。メールやSMS(携帯電話の短いメッセージ)も優しい言葉と愛情に溢れている。
こんなに親切で、面倒見が良く、コネのある「おばさん」に巡り合えたなんて、ラッキー!と内心思ったことだろう。
ところが、ロンドンに向かうはずだったテサは何故かニューヨーク経由で南米へ送られ、6月13日サンパウロ空港で逮捕される。手荷物から10キロのコカインが見つかったのだ。
ロンドンで2週間働くだけで、2万5千ランド(30万円)の報酬。交通費も払ってもらえる。高卒のテサにとっては美味しすぎる話だが、シェリルの夫シヤボンガ・クウェレ(Siyabonga Cwele)は与党ANC(アフリカ民族会議)の大物で、諜報相という重職にある。シェリル自身も市役所の部長クラス。テサの出発前には、両親がシェリルに会いに市役所へ出向いた。疑う理由はない。メールやSMS(携帯電話の短いメッセージ)も優しい言葉と愛情に溢れている。
こんなに親切で、面倒見が良く、コネのある「おばさん」に巡り合えたなんて、ラッキー!と内心思ったことだろう。
ところが、ロンドンに向かうはずだったテサは何故かニューヨーク経由で南米へ送られ、6月13日サンパウロ空港で逮捕される。手荷物から10キロのコカインが見つかったのだ。
2011/05/05
蘇った! マンデラ法律事務所
チャンセラー・ハウス(Chancellor House)といえば、1952年から1960年まで、ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)とオリバー・タンボ(Oliver Tambo)の法律事務所が入っていたビル。ジョハネスバーグ市内のフォックス通りに面し、ジョハネスバーグ治安判事裁判所のすぐ近く。
建築家フランク・ジャレット(Frank Jarett)の設計により、1948年ごろ建てられた。当時のオーナーはインド人。ジョハネバーグ市内で黒人が借りることのできる、数少ないオフィススペースだった。
「マンデラ・アンド・タンボ法律事務所」でメッセンジャーをしていたノーマン・シェア(Norman Sher)さんは当時高校生。メッセージを出来るだけ早く届けようとして狭い階段を駆け下り、何度も転げ落ちたという。そんなシェアさんをマンデラは「ハーシー」(Haasie)と呼んで可愛がった。アフリカーンス語で「ウサギ」を意味する。シェアさんは今でもこの思い出を大事にしている。
「マンデラとタンボがこの国の将来にとって、これほど大きな役割を果たすことになろうとは、当時思ってもみなかった」というシェアさん。大学卒業後、弁護士になった。
建築家フランク・ジャレット(Frank Jarett)の設計により、1948年ごろ建てられた。当時のオーナーはインド人。ジョハネバーグ市内で黒人が借りることのできる、数少ないオフィススペースだった。
「マンデラ・アンド・タンボ法律事務所」でメッセンジャーをしていたノーマン・シェア(Norman Sher)さんは当時高校生。メッセージを出来るだけ早く届けようとして狭い階段を駆け下り、何度も転げ落ちたという。そんなシェアさんをマンデラは「ハーシー」(Haasie)と呼んで可愛がった。アフリカーンス語で「ウサギ」を意味する。シェアさんは今でもこの思い出を大事にしている。
「マンデラとタンボがこの国の将来にとって、これほど大きな役割を果たすことになろうとは、当時思ってもみなかった」というシェアさん。大学卒業後、弁護士になった。
登録:
投稿 (Atom)
