2010/10/26

お知らせ:日本研究センター開設 プレトリア大学ビジネススクール

今年一年、南アフリカと日本の外交関係100周年を記念して、日本大使館主催で様々な行事が行われている。そのハイライトとも言えるのが、プレトリア大学のビジネススクールGIBS内に設立された日本研究センター(Centre for Japanese Studies)。10月26日午前10時から、開設記念シンポジウムが開かれた。

9人のパネリストが各10分ずつスピーチした後、休憩を挟んで質疑応答が行われた。スピーチの聴衆は、日本と南アの政府、企業などから約80人。

歓迎の挨拶は、プレトリア大学の学長シェリル・デラレイ教授(Prof. Cheryl de la Ray, Vice-Chancellor and Principal, University of Pretoria)。進行役はステレンボッシュ大学政治学部のスカーレット・コーネリセン準教授(Prof. Scarlett Cornelissen, Associate Professor, University of Stellenbosch)。

パネリストとスピーチの内容は次の通り。

エブラヒム・エブラヒム 国際関係協力省副大臣
H.E. Mr. Ebrahim Ebrahim, Deputy Minister of International Relations and Cooperation
「南アフリカと日本:100年経っての戦略的パートナーシップ」(South Africa and Japan:A strategic partnership after 100 years)

ニック・ビネデル GIBS所長
Prof. Nick Binedell, Director, Gordon Institute of Business Science (GIBS)
「日本研究センターの紹介」(Introduction of the Centre for Japanese Studies)

北岡伸一 東京大学教授
Prof. Shin-ichi Kitaoka, University of Tokyo
「変貌する国際秩序における日本と新興市場」(Japan and the emerging economies in a changing international order)

ピーター・ファブリシアス インディペンデント・ニュースペーパー社外報部デスク
Mr. Peter Fabricius, Foreign Editor, Independent Newspapers South Africa
「IBSA、G8、G20における南アフリカとその未来:日本の居場所」(South Africa in IBSA, G8, G20 and the future:Where is the Japan factor?)

平野克己 日本貿易振興機構・アジア経済研究所地域研究センター長
Mr. Katsumi Hirano, Director General, Institute of Developing Economies (IDE-JETRO)
「近年の日本・南アフリカ関係」(Recent development of the relation between Japan and South Africa)

マイケル・スパイサー ビジネスリーダーシップ南アフリカCEO兼ビジネスユニティ南アフリカ副会長
Mr. Michael Spicer, Chief Executive Officer, Business Leaship South Africa (BLSA) and Vice-President, Business Unity South Africa (BUSA)
「政府高官公式訪問と民間企業代表団:日本への取り組み方」(State visits and business delegations: How should we plan for Japan?)

小澤俊朗 在南アフリカ共和国日本大使
H.E. Mr. Toshiro Ozawa, Ambassador of Japan to South Africa
「過去100年の省察と次の100年に対する思い」(Some reflections on the 100 years and thoughts for the next 100 years)

ベン・ングバーネ 南ア国営放送会長(元在日本南アフリカ大使)
H.E. Dr. Ben Ngubane, Chairperson, SABC Board (former South African Ambassador to Japan)
「日本との戦略的パートナシップの有益性」(Possible benefits of strategic partnership with Japan)

2010/10/24

大統領夫人の浮気 ジンバブエ

スワジランド王妃の浮気(2010年8月16日付「王妃と大臣の不倫 スワジランド」参照)に続き、ジンバブエ大統領夫人の浮気が明るみに出た。またか、という感がなきにしもあらずだが、インパクトはかなり違う。

一方は、南部アフリカ以外で殆ど話題にのぼることのない貧しい小国スワジランドの、数多い国王夫人のひとり。他方は、1980年まで少数白人支配を続けたローデシア(現ジンバブエ)の解放闘争の英雄で、欧米のメディアにしばしば登場するロバート・ムガベの唯一の妻グレース。独立当時は比較的良政を行ったと評価されたムガベがトチ狂ってしまったのは、41歳年下の愛妻のせい、と噂される派手好きな美女だ。

しかも、「サンデータイムズ」紙の一面トップを飾った記事を書いたのは、世界的に有名なジャーナリスト、ジョン・スウェイン(Jon Swain)。ベトナム戦争、サイゴン陥落からザイールのモブツ政権崩壊、東チモールの独立まで、世界中の紛争を長年カバーしてきた。近年は、英諜報部MI6と密接な関係にあると言われている。

グレースの浮気が取りざたされたのは、これが初めてではない。浮気相手のひとり、ピーター・パミレ(Peter Pamire)はミステリアスな自動車事故で死亡。別のひとり、ジェームズ・マカンバ(James Makamba)はジンバブエ有数の富豪で与党幹部だったが、大統領夫人との浮気がばれて命からがら逃げ出した。

今回の相手は格が違った。ムガベの信頼が厚い準備銀行の総裁、ギデオン・ゴノ(Gideon Gono)。私財の管理まで任せてる友人だ。ふたりの関係は2005年に始まり、ムガベ死後には結婚を考えているといわれる。

ムガベとグレースの関係自体、不倫から始まったものだ。当時、ムガベの糟糠の妻で国民から敬愛されていたサリーは、腎臓病で苦しんでいた。グレースは大統領府のタイピストのひとりで、空軍の軍人と結婚していた。サリーの死後、1996年にふたりは結婚。既に、2人の子供をもうけていた。ジンバブエ国民の間で、グレースの評判はすこぶる悪い。

知る人ぞ知るグレースとゴノの関係をムガベに告げたのは、死の床にあったムガベの妹サビナ。今年の7月26日、午後6時と7時の間とされる。8月末、ムガベは最も信頼するボディガード、ケイン・チャデマナ(Cain Chademana)を問い詰めた。浮気の事実を知っていたことを認めたチャデマナは、数日後不審死を遂げる。

元々安い給料に不満だった諜報機関職員たちは、チャデマナの死にショックを受け、ジョン・スウェインのようなジャーナリストに重い口を開き始めた。

88歳のムガベはジレンマの真っただ中にいる。妻を寝とった親友ゴノは、ジンバブエ経済が崩壊した際、準備銀行総裁として何とかやりくりしてムガベ政権を支えてくれた恩人である。その上、国庫から盗んで世界中に隠されているという、ムガベ一家の莫大な私財の管理を一手に引き受けている。ムガベに取り入って私腹を肥やした、軍や党の幹部の中にも、ゴノに私財管理を任せている者が多い。これまでのように簡単に、不審死を迎えさせたり、国外に追放したりするには、リスクが大きすぎる。

悪妻のホマレが高いグレースだが、ムガベにとってはかけがえのない愛妻。若い妻(47)と親友(50)の不倫に目をツブルのが最善の策だっただろうが、表面化してしまった以上、何もしないのは独裁者のコケンにかかわる。今のところ、ムガベの報道官もゴノの報道官も沈黙を守ったままである。

(参考資料:2010年10月24日付「Sunday Times」など)

2010/10/20

どんな難病、問題も2日で解決! 南アのミラクル漢方医

郵便受けに投げ込まれるチラシの定番といえば、南アフリカでもやっぱりスーパーの安売り広告。しかし、日本ではまずお目にかかれないチラシもある。

その代表格はなんといっても、なんでも治してしまう「医者」。大抵はアフリカ人の伝統的祈祷師。動物や植物を材料とした薬(ムーティ)を使い、体や心の病を治すアフリカ版漢方医のイニャンガと、やはりムーティを使うが、祖先の魂と通じ、呪術的要素が強いサンゴマの2種類いる。

今日、郵便受けに入っていたのは、「Dr. Omar and Mama Hawa」。「オマール」なんてイスラムっぽい響き。ちょっと毛色が違うかも。

「ストレスも、痛みもさようなら。2日で問題を解決します。白人、カラード、インド人、中国人、黒人。誰でも歓迎!」

1番から7番まで効能(?)がリストアップされているのを、そのまま訳してみる。

1.彼や彼女の浮気。好きな人がいなくなる?
2.敵が送った悪運。魔女を目で見てしまった?
3.ペニスが小さくて弱い? 早漏。財政難。
4.試験、昇進、顧客、カジノ、競馬、宝くじに勝つ。金持ちになる?
5.財産が盗まれた。好きな人を取り戻す。妊娠。長い月経。
6.慢性の病気。誤解?
7.他の薬草治療者が治せなかった問題?

文法はめちゃくちゃだし、そもそも「問題」のくくり方がよくわからない。例えば、ドクター・オマールにとって、「早漏」と「財政難」、「慢性の病気」と「誤解」は同じカテゴリーに属する「病気」なのだろうか、同じ薬で治せるのだろうか。

「あなたが口を開く前に、どんな問題を抱えているか全てわかる」「92以上の異なる病気を治す」「問題が2日以内に解決して驚くだろう」と自信満々。しかも、診察料は50ランド(600円)という安さ。(薬のお値段の記載はなし。)

裏にも、治療例がびっしり。体重を減らす、心を穏やかにする、酒・麻薬を絶つ、貧困から抜け出す、訴訟に勝つ、呪いを断ち切る・・・。なんでも来い!である。

毛色が違うという期待は見事に裏切られた。ごくありふれた「治療」のチラシだった。

住所は
2nd Avenue No. 3 Perth Road, West Dene Plaza, Newlands

「エグゼクティブ・プールクラブの下。ポッターズ・キリスト教フェローシップ教会の隣り。オレゴン・トレーダーの向かい」と懇切丁寧である。

携帯電話の番号も2つあった。073 648 4435と072 341 9265。国外からかける場合は、南アフリカの国番号27をお忘れなく。

2010/10/17

公用語が11 南アフリカの法廷通訳

南アフリカには公用語(official language)が11ある。このうちヨーロッパ系は、英語とアフリカーンス語。残りの9つはアフリカの言葉。ズールー語、コサ語、スワジ語、ンデベレ語がングニ系、北ソト語、南ソト語、ツワナ語がソトツワナ系、シャンガーン族の話すツォンガ語がツワロンガ系、それにヴェンダ系唯一の言語であるヴェンダ語だ。この11以外を第一言語とする南ア国民は、全体の1%以下しかいない。また、大部分の南ア人は11の公用語のうち2つ以上を話す。

勿論、標識やラベルや注意書きなど、全ての記載を11言語で行うのは現実的でないので、大抵の場合、英語とその地域や職場で良く使われる言語が併記されている。

南アフリカでは、自分で選んだ言語で裁かれる権利を持つ。これは憲法で保障されている。つまり、被告や証人が英語以外の言語を選んだ場合、通訳が必要になるわけである。選ぶ言語は、南アの公用語である必要はない。日本語でもタガログ語でも、アマゾンやパプアニューギニアの言葉でも構わない。

最近、南アにおける法廷通訳の調査を行った南アフリカ大学のローズマリー・モエケツィ教授によると、法廷通訳は一般に思われているよりずっと難しい。「公の場で行われ、またかなりのストレスがある。リハーサルなし、ぶっつけ本番で対応しなければならない」からだ。通訳に被告の命がかかることだってあり得る。

南ア法務省では2000名近くを通訳として使っている。しかし、法廷通訳資格試験があるわけではないため、南アの法廷通訳の質はかなりバラバラだという。とすると、ひどい通訳にあたった被告は悲惨である。お金があれば優秀な通訳を雇うことも可能だが、公選通訳に頼らざるを得ない貧しい人々にはどうしようもない。

南アフリカ大学では3年の法廷通訳の学位コース、ヴィットヴァータースランド大学とポートエリザベス大学では2年のディプロマコースを始めたものの、いずれも生徒数の不足から閉鎖に追い込まれた。

質の良い法廷通訳を確保するには、待遇改善から取り組む必要がある。プロの通訳にとって、法廷通訳は収入にならない。公選だと恐らく料金がとても安いだろうし、裁判はその日になって延期ということが多いので、予定が立てにくい。頼まれて3日間空けておき別の仕事を断ったのにドタキャン、ということも大いにあり得る。そんな場合でも収入を保証されないと引き受けにくい。

それほどポピュラーでない言語の法廷通訳をいつでも引き受けることが出来るのは、小銭を稼ぎたい失業者とか、ボランティアに意欲のある主婦くらいではないか。法務省で使う通訳は仕事を持つ人が多いから、2000名近く名簿に載っていても、肝心の時に引き受けてもらえるとは限らない。実際、通訳手配に裁判時間の10%が費やされているという。

実は私も、一度だけ法廷通訳を務めたことがある。原告側の証人が日本人だったのだ。大手企業の責任ある職にある人だ。

裁判を遅らせたいのか、この証人に証言して欲しくないのか、被告側の弁護士が異議を唱えた。「日本には方言が沢山あるから、証人と通訳の間で言葉が通じない可能性がある」というのだ。裁判長が日本語を知らないことを盾に取ったハッタリ。めちゃくちゃな論理もいいところである。

遠回りなようでも色々な人生経験を積んだり、一見無駄な雑学を蓄積したのが変なところで役に立った。おもむろに裁判長に向かい、明治時代の標準語整備を説明し、これま政府などの通訳を務めた経験を滔々と述べた。「少なくとも日本の政府とあなたの国の政府は、私を通訳として信頼してくれている。」 実は内心冷や汗もの、こちらもハッタリだったが、裁判長はにっこりうなずき、ゴーサインを出してくれた。

(参考資料:2010年10月15日付「Mail & Guardian」など)

2010/10/14

すっかり冷めたワールドカップ熱

サッカーワールドカップ(W杯)が終わって、はや3か月。期待されていたほどの経済効果はなかったものの、開催中は国中に高揚感がみなぎり、終了直後も国民の間に「やれば出来るじゃないか!」と自信が溢れた。外国からの旅行者には「聞いていたよりずっと安全」「美しい国」と概ね好評。南アのイメージアップに貢献した。

今年の1月と8月で、南アフリカ観がどう変わったのか、南アとG8諸国で世論調査が行われた。

南ア国民の意見は散々。W杯直後には確かに圧倒的にポジティブだったのに、8月には既に国の評判が地に落ちてしまったのである。全般では100点中67.87点から56点まで下がり、政府の行政能力への信頼感は60.91点から34.33点へ、社会福祉の面では61.73店から36.50点へ墜落した。

ジョハネスバーグ大学社会学部長ティナ・エイスは、ワールドカップが終わって、国民が現実に引き戻されたからだと分析する。

因みに、G8諸国でのイメージは、44.6点から49.11点へと僅かながら好転。回答者の45%が「自然の美しさ」を称えた。南ア訪問を推薦するのはイタリア人が最も多く、次いでフランス人、ドイツ人、ロシア人。一番推薦しないのは、残念ながら日本人だった。

(参考資料:2010年10月14日付「The Star」など)

2010/10/10

観光で沸くクヌ ネルソン・マンデラが成長、引退した村

東ケープ州のクヌ村(Qunu)。緑の中に人家が点在する、これといった産業もない寒村。18の集落からなり、人口約6万人。1997年まで、上水道も電気なかった。失業率90%。職のある10%は公務員である。

クヌ村にはもうひとつ、自慢することがある。ネルソン・マンデラが生まれ育ち、引退した場所であることだ。(マンデラはジョハネスバーグ、ケープタウン、マプトにも豪邸を持っているので、いつもクヌにいるわけではない。)

解放運動、そして南ア民主化の「顔」、ノーベル平和賞を受賞した世界で一番有名な南ア人、マンデラ。南アきっての「偉人」を擁しているにも関わらず、中央政府も東ケープ州も、マンデラが「人生のうちで一番幸福な時期を過ごした」というクヌ村の発展に無関心である。

新聞に名前が出ることはごくまれ。マンデラがクリスマスを過ごしたとか、牛やヤギが横断して危ないので(交通事故に遭う家畜を心配してのことか、車を心配してのことか不明) 田舎道に地下道が作られたとか、エイズ防止の一環で10~15歳に「処女テスト」を義務づけたとかいった程度。マンデラ博物館すら、本館は32キロ離れたムタタ(Mthatha)に建設され、クヌには「出店」があるだけ。

しかし、「マンデラ詣で」にやってくる観光客は増加の一方。昨年は約1万人が、ホテルもないクヌ村を訪れた。その殆どはイギリスから。ドイツ、アメリカと続く。外国勢に押され気味の南ア人だが、その大部分はハウテン州から。

 マンデラの豪邸の前にB&Bがオープンしたのは、2008年のこと。オーナーは、ノンクムブロ・コティ・マンデラ(Nonkumbulo Koti Mandela)さん。その名が示す通り、ネルソンの親戚だ。忙しい時には、週末に40人の宿泊客があるという。現在、12室を増築中。

やはりマンデラ邸の側に、最近観光客用アパートがオープンした。近くには、マンデラ家の墓地もある。テニスコート、図書室、レストラン、会議室、衛星TVを完備し、お値段は1泊137ランド(約1600円)と超手頃。

クヌ村が南アの経済発展から置き去りにされたおかげで、訪れるファンはマンデラの幼年期を追体験できる。マンデラが子供の頃泳いだ川、牛追いをした谷、教師に「ネルソン」という英語名を与えられた学校、始めて白人に会った店。。。

これらの村の「遺産」をうまく使って、経済発展を遂げ、雇用を創出できるかどうか。その発展が少数への富の集中ではなく、村民全員に恩恵をもたらすことが出来るかどうか。これからの課題である。

観光化が進みすぎて、「マンデラ」の看板が乱立したつまらない村になり、金儲けにトリツカレタ村人の心がすさんでしまう可能性もある。まだ自然と純朴さを残した今のうちに、訪れておくことをお勧めする。

(参考資料:2010年10月10日付「Sunday Times」など)

2010/10/04

ビッグファイブがビッグフォーに? ライオンが絶滅する日

百獣の王ライオンが、20年以内に絶滅するかも。そんなショッキングな報告書が10月3日発表された。作成したのは、南アフリカのNGO、Endangered Wildlife Trust(EWT)。

動物園で見る大きなネコたちの中で、ライオンは一番ゴロゴロしている。疑り深い目で、檻の中を行ったり来たりするトラやヒョウとは大違いで、無防備にお腹をさらけ出し、グデーっとお昼寝する。喜んでエサを食べ、簡単に繁殖する。

野生でも、狩猟対象としてライオンがむやみやたらと殺されたのは過去のこと。南アフリカでは、俗にcanned lion(カン詰めライオン)と呼ばれるケシカラン商売がある。狩猟目的で繁殖させ、飼い猫状態で育った疑うことを知らないライオンを、「猛獣ハンター」気取りの欧米の観光客から最高4万ドルもの大金を取って銃で殺させる、というものである。2008年には1050頭ものライオンがこうやって合法的に殺された。非人道的という理由での反対の声は高いものの、国の法律で取り締まられているわけでもなく、ワシントン条約でも問題にならないのは、ライオンが簡単に増え、絶滅の危機にさらされていないからだ。

確かにクルーガー公園では、結核によるライオンの滅亡が心配されている。家畜の牛から野生のバッファローに結核菌が移り、更にバッファローを食べたライオンに移る、という仕組みである。だが、野生のライオンが全世界からいなくなってしまうとは。。。

EWTによると、ライオンが絶滅するかもしれない原因は、保護地域内でしか生息できないことにある。保護地域から出てしまえば、牛や羊を飼う農家に殺される。限られた範囲に住んでいるから、密猟もされやすい。

野生のライオンの数は、世界で1万6500頭から3万頭と推定されている。過去20年で30%減少した。ケニアでは、毎年約100頭が殺され、野生では現在、約2000頭しか残っていないという。

これに拍車をかけるのが、漢方薬としての需要である。トラが乱獲され、絶滅の危機にあることから、ライオンが狙われているというのである。サイのツノも、漢方薬で「媚薬」として使われることから、サイが絶滅の危機に陥っているのは周知の通りだ。

漢方薬を使うのは、勿論中国ばかりではないが、やはり13億人の需要は大きい。効果に疑問がある「薬」や他のもので代用できる「薬」を作るために、野生動物を絶滅に追い込むことは、なんとか避けることができないものか。

象牙で印鑑を作り、クジラを食べる日本人も、非常に評判が悪いことを付け加えておく。

(参考資料:2010年10月4日付「The Times」, 2010年10月17日付「The Sunday Independent」など)

2010/10/02

顧客センターでの半日 ジョハネスバーグ市と格闘 その2

ブラームフォンテーン地域の顧客センターは、朝7時半に開く。8時に着いたら、A58の番号を渡された。Aはaccount(口座)のA。用件によって、B、Eなど違うアルファベットで始まる番号が用意されている。待合室には、既に100人近くの老若男女がとりわけ焦る様子もなく待っていた。

アフリカーナのお婆さんと付き添いの娘が若い黒人夫婦とにこやかに談笑している。20年前、このお婆さんが口をきいた黒人は、雇い人であるメイドと庭師以外殆どいなかっただろう。黒人の3割が中流階級になった今、4人とも同じような服装をし、市に対して同じような問題を抱え、同じような不満を持ち、人間対人間として対等に話している。時代の流れを感じた。

A57の札を手にして、中国系の中年女性が「もっと早く来たかったんだけど、息子を学校に連れて行かなければならなかったから」とため息をつく。周りの白人、黒人、インド系が理解のある目で応える。スクールバスがあまりないジョハネスバーグでは、歩いて行ける距離に学校がある一部のラッキーな家庭を除いて、子供の送り迎えに親、特に母親の時間がかなりとられる。

隣に座った年配の白人男性フォルカーは、元クワズールー大学教授。ズールー語を流暢に話す。退職後、弁護士の息子の手伝いで、顧客センターに良く来るという。若い黒人男性が老人のE38という札を見て、「それじゃあ一日かかるよ」と気の毒そう。しばらくして、E21の札を持つ更に若い黒人男性を連れてきた。札を交換してくれるという。丁寧にお礼を言う老人に、「気にしなくていいよ」と照れる。

「ここでは忍耐が第一。係員の多くは全然役に立たない。ごく少数の、能力のある人が頼みだ」とフォルカー。アフリカーナのお婆さんと話していた若い黒人女性が口をはさむ。「それに、こちらの態度が大切。いばった挑戦的な態度では、係員もちゃんと応対してくれない。にこやかに話しかけるのがコツよ。」

フォルカーが通りかかった知り合いに紹介してくれた。アフリカーナの大柄な男性、ヨハン・ピータース氏。名刺には「municipal accounts consultant」とある。光熱費や土地建物登記などの問題で困っている市民が、市にかけあうのを手伝ってくれるコンサルタントだという。市職員の非能率や無能さが生んだ新ビジネスである。

「君はどうしたの?」とヨハン。早速、毎月の請求書と昨日撮ったばかりの電気メーターの写真を見せる。「これはひどい。明らかに間違いだ。ちょっと待ってて。」 2分ほどで戻って来て、「一緒に来なさい。」 雰囲気に押されてついていく。周りに座る人たちも、「グッドラック」とにこやか。ヨハンは有能な係員の列に連れて行ってくれた。「あなたへのお礼は?」「気にしないでいいよ。埒があかなかったら、いつでも連絡して。」

係員のピーター・クブジャナ氏は、ソエトのドブソンビル地区に住む。テキパキと仕事をしたいものの、市が導入したばかりのコンピュータシステム、SAPが遅いと嘆く。

私のアカウントを見せてもらうと、なんと毎月メーターをきちんと読んで数値を記入したことになっている。実際はたまにしか来ていないのに。しかも、記載された数字はデタラメ。メーターを読むのは、市から委託された会社である。各家庭を回る係が個人的にさぼっているのか、メーターを読む会社による組織的なごまかしか、それとも市の数値記入担当者がいい加減なのか。

更に、有能な顧客係と言っても、ピーターの仕事はコンピュータへの入力のみ。実際の事務処理は、別の係が行うという。「一カ月くらいして、電話で問い合わせをしなさい。」「電話に誰も出ないんだけど。」「う~ん。一か月くらいして、ここにまた来なさい。」

その時に、ピーターのような有能な係員にあたるという保証はない。また、今回の問題が解決しても、新たに記入される数値が嘘だと、来月も同じ問題を抱えることになる。複雑な思いで顧客センターを出たのは、お昼時。それでも、センターで出会った暖かい人たちと初夏のジョハネスバーグに広がる青空のおかげで、優しい気持ちになれた半日だった。