2017/11/25

ロバート・ムガベの興隆と没落 ジンバブエ

生きているうちにこの日が来るとは思わなかった。」

ロバート・ムガベ大統領(93歳)の辞任を聞いて、多くのジンバブエ人がこう語った。なにしろ、1980年の独立以来、37年も政権の座に居座っていたのだから。37歳以下のジンバブエ人はムガベ以外の国家元首を知らない。

ロバート・ムガベ(Robert Mugabe)は1924年2月21日、英植民地・南ローデシア(現ジンバブエ)の貧しい家庭に生まれた。6人兄弟の3番目。父親は大工。敬虔なカトリック教徒だった母親は、村の子供たちにキリスト教の教義を教えていた。

ムガベ一家が住んでいたクタマ(Kutama)村は、イエスズ会が設立した布教村。イエスズ会の教えに従い、ムガベは子供のときから厳しい自己鍛錬を積み、自制心が強い人間に育った。

田舎の子供なら誰もがそうしたように、牛追いが日課だった。牛追いをしながら本を読む、勉強好きの子供だった。

(因みに、南アフリカのジェイコブ・ズマ大統領も子供時代、牛追いをしたが、そのまま学校教育をまったく受けずに成人し、読み書きを習ったのはロベン島で服役中のことだった。今でも原稿を読むのがたどたどしい。自力で演説原稿が書けるとはとても思えない。)

勉強はよくできたものの、スポーツをしたり、他の子供と遊んだりするより、ひとりで本を読むことを好んだ。同級生たちからは「お母さんっ子」「腰抜け」とからかわれた。

1934年、長兄が下痢で亡くなり、次兄も毒入りトウモロコシを食べて死亡。同じ年、父親が大きな町ブルワヨへ。仕事を探すためだったが、そこで別の女性と知り合い、クタマ村の家族は捨てられてしまう。ロバートは若干10歳にして、ムガベ家の家長となった

1941年、教員養成学校に進学。在学中にクタマ村の母校で教え始め、月給の2ポンドで家族全員を養った。折しも、父親がブルワヨの女性との間に出来た3人の子供を連れて村に戻って来る。父親はまもなく死亡。ロバートは実の弟妹3人に加え、母親が違う弟妹3人の面倒まで見ることになった。

教員養成学校を卒業後、南ローデシア各地で教鞭をとる。1949年、奨学金を得て、南アの名門黒人大学「フォートヘア大学」(University of Fort Hare)に進学。フォートヘア大学で政治に目覚め、アフリカ民族会議(African National Congress)に参加。また、マハトマ・ガンジーのインド独立運動に大きな影響を受ける。大学では歴史と英文学を専攻し、1952年に学士号取得。同年、南ローデシアに戻った時には、植民地制度に大きく反発するようになっていた。

南ローデシアで教鞭を取りながら、通信大学「南アフリカ大学」(University of South Africa)で学び、教育学の学士号を取得。政治への関心が一層高まり、マルクス主義に関する本を多数、ロンドンから取り寄せたりしたが、まだ政治活動には足を踏み入れていない。

1955年から1958年、北ローデシア(現ザンビア)の教員養成学校で働く。本当に勉強が好きだったようで、働きながら行政学の学士号を取得(ロンドン大学)。

1958年、ガーナの教員養成学校で働き始める。ガーナはアフリカで初めて独立を果たした植民地。「独立したアフリカ国家がどんなものか、見てみたかった」と後に語っている。ガーナでムガベはマルクス主義を全面的に受け入れた。未来の妻サリー・ヘイフロン(Sally Hayfron)に巡り合ったのも、ガーナでのこと。教員養成学校の同僚で、ムガベ同様、政治に大きな関心をもつ女性だった。

1960年、ロバートとサリーは南ローデシアに向かう。短期の一時帰国のつもりだった。しかし、友人の活動家に説得され、白人少数支配抵抗運動の指導者となる。

1961年2月、カトリックに改宗したサリーと結婚。

サリーとの結婚式

南ローデシアでは右翼白人が勢力を強め、独立運動指導者たちの弾圧を強化した。ムガベも1963年12月に逮捕され、1964年3月から服役。刑務所では身体的精神的拷問を受けたらしい。

1966年、妻とガーナに戻っていた3歳の息子が病死。息子の埋葬に立ち会うことを許さなかったローデシア当局を、ムガベはずっと恨んでいたという。刑務所の神父エマニュエル・リベイロ(Emmanuel Ribeiro)によると、ムガベが苦しい服役生活を乗り越えることができたのは、強い信仰心、勉学心、それに囚人仲間に勉強を教える活動のおかげだった。

1965年12月、南ローデシアは「ローデシア」としてイギリスから独立。政権を取ったのは、イアン・スミス(Ian Smith)を指導者とする白人だった。アフリカ大陸で植民地支配が崩壊し、黒人国家が次々と誕生していた時代の趨勢に逆行する動きである。

1965年、『タイム』の表紙になったイアン・スミス

ムガベが釈放されたのは1974年11月。逮捕されてから約11年ぶりに自由の身となった。服役中も勉学を続け、ロンドン大学から経済学の修士号や法律の学士号など、いくつもの学位を取得している。

釈放後は隣国モザンビークで、ゲリラ戦の準備を開始。1976年、1000人のゲリラがモザンビーク国境を越えて、白人が所有する農場や商店を襲った。1979年にはローデシア各地の町を襲撃。ゲリラ戦で少なくとも3万人が命を落としたと推定されている。

妻のサリーもモザンビークにやってきた。何千人ものローデシア難民の母親的存在となり、「アマイ」(Amai)=「お母さん」と呼ばれて慕われたという。

ムガベはマルクス・レーニン主義を標榜(ひょうぼう)したが、実際に助けてくれたのはソ連ではなく中国だった。ソ連はライバル解放運動組織の指導者ジョシュア・ンコモ(Joshua Nkomo)を支持。中国は無条件で武器を提供してくれた。

ンコモが話し合いによる政権譲渡を目指したのに対し、ムガベは軍事革命を主張。スミスをはじめとする白人指導者を「処刑」し、白人所有の土地を没収し、マルクス主義政権を樹立することを目指していた。ローデシアの白人を「吸血搾取者」「サディスティックな殺人者」「ハードコアの人種差別主義者」と呼び、白人に対する暴力を呼びかけた。白人に対する激しい憎悪は、服役中に培われたのだろうか。

1979年、イギリスの調停により、翌年総選挙を行うことになる。ローデシア軍を力で打ち負かすことができなかったムガベは不満だったが、モザンビーク大統領サモラ・マシェル(Samora Machel)に説得され、調停に同意した。

サモラ・マシェルはネルソン・マンデラ夫人グラサ・マシェルの元夫

ローデシア白人は土地の没収を免れる。その代わり、イギリスとアメリカが提供する資金を使って、ジンバブエ政府が白人の土地を買い取り、黒人に分配することになった。(英米の資金提供にも関わらず、ムガベ政権は土地再分配を行わなかった。貰った土地購入資金はどこに消えてしまったのだろう。。。)

1980年の総選挙で、ムガベ率いるZANU-PF(Zimbabwe African National Union-Patriotic Font)が63%の得票率で圧勝(第1回目の総選挙で、早くもかなりの暴力や脅しがあったらしい)。ムガベは新生黒人国家「ジンバブエ」の首相に就任する(大統領は儀礼的存在)。

首相となったムガベは社会主義国家を目指すと繰り返しながらも、実際は西側諸国の援助を受け、資本主義の枠組みの中で保守的な財政政策をとった。また、医療と教育に重点を置いた。2000年の成人識字率は82%と、アフリカでは非常に高いレベルだった。子供の予防接種率も25%から92%へと大きく改善した。

その一方で、新しい政治エリート層が登場。政治力を利用して財力を蓄え、豪邸や高級車を購入し、子弟を私立学校に送り、農場や企業を経営し始めた。ムガベ自身は質素な生活をすることで知られていた。

国民の生活向上には熱心だったムガベだが、政治上のライバルは徹底的に排除した。一旦は閣僚として政府に招き入れたンコモを、「家に入り込んだコブラ」と呼び解任。「唯一有効な蛇の撃退法は、素早く攻撃して頭を潰すこと」と公言し、北朝鮮で訓練を受けた部隊をンコモの地元マタベレランドに送って、約2万人の市民を殺害。多くの人々が拷問されたり、家を失ったりした。ンコモは女装して、命からがら国外に逃げた。(1999年7月1日、前立腺がんによりハラレで死亡。)

ジョシュア・ンコモ

1987年12月30日、ムガベは大統領に就任。これまでの儀礼的なものではなく、国家元首、政府代表、軍総司令官を合体した最高権力である。議会の解散権や戒厳令を発令する権利も持つ。再選回数に制限はない。

無敵と思われたムガベだが、その没落はグレースの登場と共に始まった。

1987年、63歳のムガベは41歳年下の秘書で子持ちの人妻グレースと不倫関係になる。

これまでの人生を通し、勉強・教育、解放運動、国家建設と、目標は変わっても一筋に打ち込んできた、堅物なムガベである。酒もタバコもやらない。「人生唯一の、本当の友」サリー夫人以外の女性が噂になったこともない。権力を利用して豪華絢爛な生活ができる立場なのに、質素に暮らすムガベである。子供好きだが、たったひとりの息子は幼くして亡くなってしまった。若さを失い、先行きが不安になり、男としての自信がなくなる年齢でもあっただろう。最愛の妻サリーは腎臓病で、人工透析を受けている。

そこに現れた22歳のグレース。輝くばかりの美人。後に明らかになった性格から察すると、ムガベ夫人になるために手練手管を尽くしたことだろう。1988年には娘ボナ、1990年には息子ロバートが生まれる。

国民には伏せたグレースとの関係をサリー夫人は知っており、当然のことながら快く思っていなかった。だが、サリー夫人の姪パトリシア・ベケレ(Patricia Bekele)曰く、「叔母はかつて私に助言した通りのことを自分で行いました。『結婚に問題が起こったら、枕に話しなさい。何があっても、決して夫を辱めてはいけませんよ。』叔母のモットーは『優雅に頑張り通す』ことだったのです」。

サリーは1992年に亡くなり、1996年8月、ムガベはグレースと再婚する。1997年には次男チャツンガが生まれている。

グレースとの結婚式

ファーストレディーになったグレースのあだ名は「グッチ・グレース」。ブランド品が大好きなことからついたあだ名だ。1日に何百万円も平気で使う、無神経・無節操な生活を送る。(「足の甲が細いから、フェラガモしか履けないの」だそうです。)短気で暴力的な性格でも知られている。

子供たちは超甘やかされ、勉強にも働くことにも関心がなく、母親同様、湯水のように金を使う。今世紀に入り、失業率が90%、国民の大多数が貧困にあえぎ、明日食べるものにもおぼつかない状況でも、グレースと子供たちは国庫から直接現金を引き出して使いまくっていた。

グレースの影響か、1990年代半ばには、ムガベは気まぐれで激しやすい独裁者になっていた。立ち向かう者を容赦せず、法律や人権を無視し、ゴマスリに取り巻かれ、無能や汚職に無関心。自分を偉大だと信じる一方で、現実から逃避し、パラノイアになった。困難な問題はすべて、自分の「革命」を阻止しようとする、イギリス、欧米、ローデシア白人ネットワークのせいと思い込んだ。

1990年代を通じて、ジンバブエ経済は悪化の一途を辿る。2000年の生活水準は1980年を下回っていた。教育も医療も質が低下。平均寿命は短くなり、平均賃金も下がった。1998年、失業率は50%近くまでになった。独立戦争で戦った兵士たちが年金を要求。全国的なストライキ。更には、食料不足から首都ハラレで暴動が起こった。しかし、ムベキは西欧諸国と、経済を牛耳るジンバブエの白人を非難するばかり。ムガベに反対する黒人は「白人に騙されている」と一蹴。

国内の不満をそらすためか、ホモセクシャルを「非アフリカ的」「人間以下の振る舞い」「犬や豚よりひどい」と呼んだり、議会の承認なしにコンゴ民主共和国(DRC)に軍隊を派遣したりした。DRCへの部隊派遣には1日100万米ドルもかかり、ジンバブエ経済を更に圧迫することになる。

2000年2月の国民投票で、政府が提示した新憲法案が否決された。ムガベが投票で敗北したのは、過去20年間で初めて。「少数民族である白人が謀ったせい」とカンカンのムガベは、自国民である白人を「ジンバブエの敵」と呼ぶ。政府主導による白人農家の襲撃が始まったのは、その直後だった。名目は「土地の再分配」。しかし、白人から強制的に取り上げた土地は、ムガベの側近など一部のエリートに渡った。

白人が逃げ出したことで、ジンバブエの農業は壊滅。鉱業、製造業も大きな痛手を負う。2003年、国民の半数が最低限の食料を確保できなかった。2007年、ジンバブエのインフレは世界最高となる(7600%)。翌2008年のインフレ率は10万%を超えた

2005年の失業率は推定80%。2008年、学校に通う子供はわずか20%。上下水道システムが崩壊したことから、2008年にはコレラが勃発し、9万8千人以上が感染。HIVエイズ感染者も増え、15歳から49歳の国民の感染率が2008年には15.3%になった。

1997年には63歳(女性)と54歳(男性)だった平均寿命は、2007年、34歳と36歳にまで下がった(WHO)。

自然保護で有名だったジンバブエだが、観光産業は大幅縮小し、野生動物の密猟が増加。ムガベは対策を練るどころか、2007年4月、パーティーの料理用に象100頭を殺すことを命令した!

ムガベ政権に対抗する有力野党MDC(Movement for Democratic Change)が誕生したものの、党員や支持者は威嚇・襲撃・拷問・殺害などの目に遭い、選挙法はムガベに都合よいよう変更され、選挙では不正操作が行われた。

権力にしがみつくためなら手段を選ばないムガベに、国際社会からの非難が高まり、経済制裁が行われた。ムガベは経済制裁を「西洋諸国による新植民地政策」と呼び、「ジンバブエの経済悪化は西洋諸国のせい」と逆非難。

夫は100歳までジンバブエを支配する」「夫は死んでも墓の中から統治する」など豪語するグレースだが、内心かなり心配になっていた。なんといっても、グレースが持つのは「ムガベ夫人」という肩書だけ。ハクをつけるために博士号を取ることにする。夫が学長を務める大学の博士課程に入学し、わずか2か月で社会学の博士号を取得。「論文を書いた」と主張するが、グレースの論文は公開されていない。

賢い人間なら、過去30年以上国庫を私物化した過程で、世界中に財産を拡散し、多角的に投資し、一生遊んで暮らせるよう画策しているはず。しかし、グレースは散財専科。家や車やドレスやバッグや靴はたくさんあるが、手堅い貯蓄はしていない。夫亡き後、現在のペースで散財すれば、手持ちの財産なんてあっという間になくなってしまう。。。

そこで思った。私が夫の後を継いで大統領になればよい。それには、夫の後継者とされる副大統領が邪魔。。。

夫とペアルックで登場するグレース

2014年12月、ムガベは、次期大統領と目されていたジョイス・ムジュル(Joice Mujuru)副大統領を「政権を狙っている」として解雇。2015年11月、「2018年の大統領選挙に94歳で立候補する」と宣言。2017年2月、93歳の誕生日の直後、ムガベは「引退もしなければ、後継者の任命もしない」と発言。これまで長年、ムガベにくっついて散々甘い汁を吸ってきたものの、そろそろ嫌気がさしていたZANU-PFの幹部たちは、さぞかしがっかりしたことだろう。

2017年に入ってムガベが病気治療のためシンガポールに行った際、グレースの台頭に我慢ができなくなっていたジンバブエ国軍はクーデターを起こそうとした。それを止めたのは、軍隊に人気があるエマーソン・ムナンガグワ(Emmerson Mnangagwa)副大統領。

ムナンガグワとズマ

ところが、その副大統領をムガベは11月6日、解雇してしまう。「グレースを後継者に任命する布石」と見た国軍は、11月15日、ムガベを自宅に監禁する。「クーデターではない」と強調しながら。

11月19日、ZANU-PFはムガベを党首の座から追い落とし、ムナンガグワを新党首に任命。更に、ムガベに対し、「明日の正午までに辞任しなければ弾劾する」。グレースも党から追い出された。

その夜、ムガベが全国テレビでスピーチするという。「辞任宣言だ!」と確信していた軍隊と政治家と国民はがっかり。辞任の辞の字もない。そのため、11月21日、国会で弾劾と憲法に関する審議が始まる。これまで法律を無視し、滅茶滅茶な行動をとってきたZANU-PFなのに、ここに至って法律に基づいた手順をきちんと踏んでいる。感心するべきか、あきれるべきか。。。

審議が始まって30分後、議長にムガベの手紙が渡される。即時辞任という。これまでの行為に対し、免罪を保証された上での決意だったらしい。

ムガベは現在、ハラレの自宅に軟禁中。グレースは国外に出たらしいが、どこにいるか不明。

今日11月24日、ムナンガグワ(75歳)が大統領に就任した。国中に期待感がみなぎる。就任演説では明るい未来を約束したムナンガグワだが、これまで37年間ムガベと一緒になってジンバブエを支配してきた、腐敗しきったZANU-PFである。白人農家襲撃や野党弾圧を積極的に行ったムナンガグワである。正直いって、あまり期待できない。

ジンバブエが真の民主国家として生まれ変わるのはいつの日のことだろうか。


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