2016/03/05

マンデラ家の跡取り、4度目の結婚 イスラム教に改宗

マンデラ家の跡取り息子マンドラ(Zwelivelile "Mandla" Mandela)がイスラム教徒に改宗して、イスラム教徒の女性と結婚した。人種も文化も宗教も違う女性と結婚するとは、さすが「和解の人」ネルソン・マンデラの孫息子!

でも、・・・マンドラって、結婚してなかったっけ?

マンドラは1974年、ジョハネスバーグのソウェトで生まれた。父親はネルソン・マンデラと最初の妻エヴェリンの息子マハト(1950-2005)。1995年までスワジランドの中等学校で教育を受けた後、南アフリカのローズ大学に入学。卒業したのは、なんと2007年、30歳を超えてからだ。その間、働いていたわけではなく、学生生活を楽しんでいたようだ。

マンデラ家は東ケープ州ムヴェゾ(Mvezo)の首長だったが、ネルソン・マンデラの父親が1900年代の初頭、地元の裁判官と問題を起こし首長の座を追われる。跡取りのマディバ(ネルソン・マンデラ)は弁護士であること、解放運動に身を尽くすことを理由に、若くして首長職を継ぐ権利を放棄。それが、約70年ぶりにマンデラ家の首長職を再興しようという話になり、マハトが既に死亡していたことから、マハトの長男マンドラが2007年、32歳の時に首長に就任する。

ムヴェゾは人口わずか800人。行政は地方政府が行なうから、首長の仕事は伝統的な行事を執り行うこと程度。だが、首長には政府から給料が支給される。農村部で力のある首長を取り込むことで、住民の票を確保しようとする与党ANC(アフリカ民族会議)の政策である。

マンドラはまた、晩年ぼけて衰弱し、自分の意志を通すことのできないマディバをANCの集会に担ぎ出したりしてズマ現大統領に貢献し、2009年の総選挙後、国会議員にしてもらう(南アの国会議員は比例代表制選挙で選出される)。首長の給料に、国会議員の給料が加わったわけだ。更に、ズマ家と近いマンドラは、ズマの家族と一緒に事業を起こし、マンデラ家とズマ家の名前とコネを思う存分私利私欲に利用している

マンドラはマディバが亡くなる何年も前に、「マンデラの葬式の報道権を300万ランドでSABCに売った」として問題になったこともある(「AP通信とロイターがマンデラをスパイ? 警察が監視カメラを撤去 根拠はアパルトヘイト時代の法律 」)。また、マディバが危篤状態の際、マンデラ家の人間3人の墓を家族に無断で掘り起し、遺体をクヌからムヴェゾに移動して家族に訴えられている(「マンデラ対マンデラの戦い マンデラ家の跡取り、家族に訴えられる 遺体を勝手に墓場から移動 」)。

・・・といったような調子で、マンデラ家の跡取りには残念ながら、あまり芳しい評判がない。

結婚に関してもそうだ。なんと過去12年に4回も結婚しているのだが、これが問題続き。

最初の妻はタンド・マブンダ(Thando Mabunda)。2004年6月に、正式に結婚した。

最初の夫人タンド(Tims Live

内務省に「配偶者」として登録できる妻はひとりだけ。ズマ大統領には複数の妻がいるが(「ズマ大統領 また結婚 「現役妻」は4人」)、一夫多妻を容認するアフリカ部族のために、第2妻以降にも配偶者としての権利を認める法律があるからで、ズマ大統領にしても内務省登録の妻はひとりだけである。

また、最近の若者の間では、一夫一妻が普通だ。農村共同体でない社会で複数の家族を養うのは大変だし、都会に住む勤め人にはスペース的にも妻ひとりで十分。更に、西洋的な考えが普及し、第2妻に甘んじる若い女性は今どきまずいない。ズマの妻たちは例外的な存在だろう。

さて、タンドは2009年、離婚を申し出る。南アの離婚は、たとえ双方が納得している場合でも、片方が他方を裁判所に訴え、裁判所の判決を得なければならない。親権や財産分配に関して片方が納得しない場合はかなり厄介なことになる。

タンドとマンドラの間に子供はいないものの、財産を巡って離婚裁判が長引いている。ふたりは婚前契約なしに結婚したため、マンドラの財産の半分はタンドのものなのだが、マンドラがゴネているのだ。(婚前契約に関しては、「マンデラの遺書公開 元妻ウィニーへは一銭も残さず 」参照)

マンドラは2010年3月、リユニオン出身のフランス国民で、まだ20歳のアナイス・グリモー(Anais Grimaud)と結婚する。タンドとの離婚が成立していないので重婚だ。法律違反として、タンドは裁判所に訴え出る。これに対し、マンドラは、「ムヴェゾの首長としての職務をサポートしてくれる妻が必要」とか、「首長としての立場上、跡取りを作るために多くの女性と結婚しなければならない」などと反論。

2番目の夫人アナイス(Destiny

アナイスはフランス語が第1言語の外国人。コサ族の言葉も風習も知らない。マンドラが主張する首長の妻としての役目が十分果たせるわけがない。更に、タンドが裁判所に申し立てる。マンドラには生殖能力がないから、「跡取りを作るために多くの女性と結婚」云々という言い分は意味をなさないというのだ。裁判所はタンドの申し出を認め、2011年マンドラとアナイスの結婚は「無効」となる。

アナイスは2011年9月に男子を出産。マンドラの実子としてマディバにも紹介する。ところが、その後マンドラは「自分の子供ではない。アナイスが自分の弟のひとりと浮気して出来た子供」と言い出し、アナイスをリユニオンに送り返してしまった。3人の弟はいずれもアナイスと関係を持ったことを否定している。

アナイスを追い払ったのには訳がある。マンドラは2011年12月、裁判所の命令を無視して、スワジ王国の王女ノディヤラ・ムバリ・マカティニ(Nodhilaya Mbali Makhathini)と結婚してしまっているのだ。タンドはこの結婚にも異議を申し立て、裁判所は2014年、マンドラとノディヤラの結婚を「無効」とする判決を下す。

大統領の一般教書演説に出席するファッショナブルなマンドラとノディラヤ夫妻(onskmzai

2013年、マンドラはケニアのモデルと婚約する。妻のノディラヤ曰く、「別になんとも思いません。夫は一夫多妻主義なので、いずれは他の人と結婚します。ケニアから結納の交渉に女性の家族が訪れた時、私も同席しましたが、結婚式がいつになるかは知りません。別の所帯なのですから、私が口を出すことではありません」(Dispatch Live)。そんなものなのだろうか。

この婚約は破棄されたようで、結婚には至らなかった。

そして、2016年2月6日、41歳のマンドラはケープタウンのカラードでイスラム教徒のラビア・クラーク(Rabia Clarke)とモスクで結婚式を挙げる。結婚に備え、2015年に既にイスラム教に改宗していたらしい。

4番目の夫人ラビアとの結婚式(East Coast Radio

どの宗教を信じるかは、もちろん個人の自由だ。だが、マンドラは伝統的首長。コサ族の伝統に則り、先祖の魂とコミュニケートする必要がある。イスラム教は先祖の魂との交流など許さないのではないか。また、マンドラ自身は問題ないというが、ムヴェゾの長老たちは寝耳に水の結婚に難色を示している。ムヴェゾの人々にとっては、聖公会の長であるエリザベス女王や神道の長である天皇がイスラム教に改宗するくらいの大事件なのだ。

毎年、大統領が一般教書演説を行う日、南ア議会は米アカデミー賞授賞式のハリウッド並みのファッションショーに変貌する。着飾るのは国会議員と配偶者。テレビのニュースや翌日の新聞を鮮やかな衣装が飾り立てる。2月11日、マンドラは当然、新妻と登場すると誰もが思っていた。ところがマンドラに同伴したのは、スワジ王国の王女ではないか。数日にして結婚が暗礁に乗り上げたのか?!?

今年の大統領一般教書演説にて(People Magazine

懸念だったようだ。2月24日、財務大臣の予算発表演説にはラビアとやって来た。なんだかな~。

祖父の名前の重さに応えようと、インドで、南アで、アメリカで、世のため人のために尽くそうと努力するマハトマ・ガンジーの子孫とあまりにも違うマンデラの子孫たち。なんだかマンデラが可哀想である。

マンドラと「結婚」した女性はどう考えているのだろう。「マンデラ」という名前、「マンデラ家の跡取り」という立場がそれほど魅力的なのだろうか。それとも、「正式な妻になれなくても良い」「他の女性と分かち合っても構わない」と思うほど、マンドラ自身に魅力があるのだろうか。

マンドラの4人の妻(All4Women

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