2018/04/03

ウィニー・マディキゼラ=マンデラ、亡くなる 解放運動の闘士、ネルソン・マンデラの元夫人

"She is brave but stupid."

勇敢だけど愚かだ」というのは、25年位前、ズールー語の先生ノムサが当時ネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)夫人だったウィニー・マンデラ(Winnie Mandela)を形容した言葉。

ノムサはウィニーと同じコサ族。年も同じくらい。「ウェンディ」という英語名もあるが、「奴隷名」と呼んで嫌っていた。「アフリカ人の名前が発音できない白人のために、これまで嫌々英語名を使ってきたけれど、これからは私たちの時代!」という気概が感じられた。

ノムサは知的で聡明で、しっかりと自分の意見を持った人だった。ズールー語を教えるのが本職だったのだろうか。それとも、それはパートで、昼間は別の仕事についていたのだろうか。

簡潔で淡々としたノムサの言葉は、客観的なウィニー評のように聞こえた。

昨日(2018年4月2日)、ウィニー・マディキゼラ=マンデラ(Winnie Madikizela-Mandela)が亡くなった。享年81歳。

普通、死人の悪口は言わないものだ。葬式で故人の人柄や業績を称えても、欠点をあげつらう弔問客はいない。

しかし、歴史的人物の死亡記事・報道の場合、業績を重視しつつも、欠点や失敗や汚点にも歴史的評価として触れるのが一般的である。大抵9割x1割くらいの比率だろうか。ところが昨日、今日の報道を見ると、ウィニーの場合、特に第3者として客観的に論じやすい外国メディアで、それが6割x4割くらいになっている。

ノムザモ・ウィニフレッド・ザニウェ・マディキゼラ(Nomzamo Winifred Zanyiwe Madikizela)は1936年9月26日、東ケープ州(現在)のムボングウェニ(Mbongweni)村に生まれた。8人きょうだいの4番目(娘7人、息子1人)。「ノムザモ」というのは「試練に耐えなければならない者」という意味。ウィニーが9歳の時に教師だった母親が亡くなり、きょうだいは複数の親戚に預けられ別々に育つ。

1957年、22歳のウィニーはジョハネスバーグでソーシャルワーカーとして働いていた。ソウェトのバス停に立っていたところを、通りがかったネルソンに見初められる。車で通り過ぎながら、「あまりの美しさに打たれた」という。

ネルソンは親友オリヴァー・タンボ(Oliver Tambo)と共同で弁護士事務所を開いていたが、数週間後ネルソンがオリヴァーのオフィスに顔を出したら、あの美しい女性がいるではないか! ウィニーはオリヴァーのガールフレンド(のち夫人)アデレイド・ツクドゥ(Adelaide Tsukudu)の友だちだったのだ。

当時39歳、妻子持ちのネルソンは初デートで「君と結婚する」と一方的に宣言。妻エヴェリンを離婚し、1958年6月14日ウィニーと再婚する。とはいっても、プロポーズの言葉はなかった。ウィニーと結婚すると決めたネルソンは、相手に「結婚してくれないか」と聞くこともなく、結婚式の日時・場所をある日突然ウィニーに告げた。男尊女卑の伝統が強く根づいた田舎で生まれ育ち、この頃はまだ内気でおとなしい小娘だったウィニーは、飛ぶ鳥を落とす勢いの花形弁護士・解放運動家で、しかもずっと年上の恋人にそう言われ、黙って指示に従った。そんなものだと思ったのかもしれない。それでもウィニーは愛する人と結婚できて幸せだった。

ネルソンとウィニーの結婚式

ネルソンの政治活動のため、甘い結婚生活を楽しむ時間は短かった。そして、ネルソンの地下潜行、逮捕、終身刑判決・・・。残されたウィニーと娘たちは当局の執拗な嫌がらせに遭う。

自身も政治に目覚めたウィニーは逮捕され、拷問され、独房に入れられ、国内流刑にされる。チャーミングで、雄弁で、熱情的なウィニーはカリスマ性を身につけ、ネルソンが外部に発信する言葉を失っていた時代、解放運動の広告塔となり、「民の母」として慕われた。その一方で、痛めつけられた辛い年月はウィニーに「憎しみ」を教えた。27年間の獄中生活で、「許し」を学んだネルソンとまったく逆方向である。

これは単に、ふたりの性格の違いではない。

獄中のネルソンには自由がないとはいえ、住居と食事を保証された生活だ。単調でプライバシーがない半面、規則正しい、意外性のない日常を送っていた。当面の敵である看守たちを懐柔することに、集中し実現する時間と余裕がある。

だが、幼い娘ふたりを抱えるウィニーは、日々、当局の執拗な迫害に晒された。警察の嫌がらせのために仕事も持てない。娘たちをどうやって養えばよいのだろう。自分が投獄されている間、だれが娘たちの面倒を見てくれるのだろう。アパルトヘイトが終わる日が来るなんて、夫が生きて出獄する日が来るなんて、とても思えない・・・。

南ア国内外の人々に英雄視され、当局・制度と勇敢に闘う一方で、何度も絶望的な気持ちになったことだろう。政府が憎い。警察が憎い。白人が憎い。アフリカーナが憎い。私や娘たちを辛い目に遭わせる人たちが憎い。。。心が段々鋼(はがね)のように固く冷たくなっていくのが、そして心が徐々に壊れていくのが容易に想像できる。

「英雄」ウィニー・マンデラに世界の人々がクェスチョンマークをつけ始めたのは1980年代半ばのことだ。酒におぼれ、残酷なまでに過激になり、常軌を逸脱した言動を取るようになったのだ。

1986年4月の大規模な政治集会で、「一緒に、手に手をとって、マッチ箱とネックレスを使って、この国を自由に導こう!」と群集を扇動。ネックレスとは、密告者の体をガソリンに浸したタイヤに通し、火をつけて処刑すること。残酷な方法での殺人を情熱的に奨励するウィニーに、古い世代の解放運動家たちはショックを受けたが、黒人居住区に住むラディカルな若者は歓喜・熱狂した。

解放運動が闘うべき相手は白人政権であり、アパルトヘイトという巨大な制度である。目の前にいる同じ黒人を密告者との疑いがあるだけでリンチして殺しても、民衆の自由には結びつかない。しかし、論理的におかしいと指摘する者はいなかった。

1986年、支持者に取り巻かれたウィニー

私事だが、1988年に初めて南アを訪問した際、ヴィズニューズ(報道映像提供会社。のちロイターに買収される)のオフィスでショッキングな映像を目にした。BBCに頼まれて撮った映像だったが、あまりに残酷だから放映されなかったという。

カメラが捉えるのは、黒こげの女性。密告者という疑いをかけられ、火をつけられたのだ。焼身自殺するチベット僧侶は勢いよい炎に包まれているが、この女性の体に大きな炎は見えない。プスプスと時間をかけて焼かれている感じ。黒焦げなのにまだフラフラしながら歩いている。取り巻く群集が殴る。蹴る。石を投げる。女性は地面に倒れるが、燃える石炭のようになりながらもまだ生きている。人間が燃えるのに、こんなに時間がかかるのか、と驚いた。この女性が本当に密告者であるかどうかは定かではない。群集を暴徒に変貌するには、噂だけで十分なのである。

密告者という疑いをかけられただけで、何人が殺されたことだろう。それを率先して奨励するウィニーは、もはや正気とは思えなかった。

ウィニーはソウェトの豪邸に住み、若い愛人との関係がスキャンダルになり(妊娠中の愛人のガールフレンドを大っぴらに脅したりした)、「マンデラ・ユナイテッド・フットボール・クラブ」(Mandela United Football Club: 略称MUFC)のメンバーに取り巻かれていた。名前が示唆するようなサッカークラブではなく、ウィニーの護衛団を務めるならず者の集まりである。

1988年12月29日、MUFCは牧師宅から4人の少年を誘拐し、ウィニー宅で暴行を加えた。4人のひとりジェイムズ・セイペイ(James Seipei)、別名ストンピー・モエケツィ(Stompie Moeketsi)は密告者の疑いをかけられ、ナイフで喉をかき切られて殺された。まだ14歳だった。

ストンピーが暴行を加えられてから殺されるまでの間に、マンデラ邸でストンピーを診察した医師も、1989年1月27日殺害された。

ストンピーの暴行・殺害はウィニーの命令であり、ウィニーはその場にいたという。また、医師の暗殺にウィニーは8000ドル払い、武器を提供したという。

ネルソン釈放後、解放運動とアパルトヘイト政権が交渉している微妙な時期に、ウィニーはストンピーの誘拐・殺害の疑いで起訴される。しかし、恐らくウィニーの人気と政治的立場を考慮してのことだろう。誘拐以外では無罪判決。誘拐罪で6年の禁固刑が下されたものの、のちに罰金に軽減。また、医師の殺害事件は証人が証言を拒否したために休廷になる。(ウィニーに脅されたといわれている。)

1990年2月、思ってもみなかったことが起きた。ネルソン・マンデラが釈放されたのだ。南アでは、ウィニーの愛人がどうなるのか、憶測が交わされた。

ネルソン・マンデラが釈放された日

釈放時、全世界の前に手に手を取って現れたネルソンとウィニーだったが、ふたりの関係は元に戻らなかった。1992年4月に別居、1996年3月に離婚。ネルソンの服役中、ウィニーが数々の不倫関係にあったことや、釈放後ウィニーが冷たい態度を取り、ネルソンが辛い思いをしたことなどが、離婚裁判で明らかになった。

それでも1994年大統領に就任したネルソンは、ウィニーを芸術文化科学技術省の副大臣に任命する。これまでの苦労に対するお礼と、党内の若者の間での大人気を考慮したものだろう。

私が公式にウィニーに会ったのはこの頃のことだ。1994年6月23日、ジャーナリストとして取材したのである。

アポは朝8時。場所はケープタウンの議員事務所ビル。他の事務所では職員が忙しく働いているというのに、ウィニーの事務所は約束の時間に秘書も来ていない。

かなり待って秘書が出勤。更にかなり待ってウィニーが出勤。アポの時間通りに来た私たちを尻目に、飛び入りの陳情者が次々とオフィスに入る。コネがすべての世界のようだ。

やっとウィニーに会えたのは、約束の時間を2時間以上過ぎてから。

思ったより大きい。柔和な笑顔を浮かべ、両手を大きく広げて、ハグされる。すべてを包み込む母親のよう。腕の中で子宮に戻ったような気になった。なんというカリスマ性!

まだニューヨークに住んでいた頃買って読んだ、1985年に出版された自伝 Part of My Soul Went with Him(直訳すると「私の魂の一部が彼と共に行った」)にサインしてもらう。(離婚後の版では題名が Part of My Soul(私の魂の一部)に変更されている。「彼」が消されてしまった。)

本の表紙(左)とウィニーのサイン(右)

Love always」というのが情熱的なウィニーらしい。その後何度も色んなところで姿を目にしたが、ハグされたのはこれが最初で最後だった。

私の取材の10か月後、ウィニーは汚職容疑で解雇される。

その後もスキャンダルは収まらない。2003年4月には、詐欺罪32件、窃盗罪25件で有罪判決を受ける。だが、党内での圧倒的人気を考慮してか、ウィニーが刑務所に行くことはなかった。その頃、某ラジオ報道番組が「ウィニーは刑務所に行くべきか」という討論をしていた。ラジオ局に電話してきた聴取者のほとんど(いずれも黒人。男女とも)が「解放運動に大きな貢献をしたのだから服役すべきでない」「国の母を刑務所に送ることはできない」という意見だった。

解放運動時代の一番苦しかった時期、ノムサのいう「勇敢さ」がウィニーを英雄にしたのだろう。権力に潰されそうになっても跳ね返し、一途に果敢に立ち向かう強靭さ。しかし、ウィニーには政治家としての資質はなかった。判断が甘く、感情や温情主義に流され、民主主義や法治国家に関する理解がなく、気軽に賄賂を受けつけた。平和時にはノムサのいう「愚かさ」が露呈してしまった。

ウィニーはここ数年、体の調子が悪かった。糖尿病に苦しみ、また大きな手術をいくつか受けた。今年に入ってから、入退院を繰り返していたという。

先週末、「風邪を引いたようだ」とジョハネスバーグの市立総合病院「ミルパーク病院」(Milpark Hospital)に入院。そのまま容態が悪化し、4月2日に亡くなった。亡くなるまで現職の国会議員だった。合掌。


【参考資料】
"Winne Madikizela-Mandela Is Dead at 81; Fought Apartheid", The New York Times(2018年4月2日)など

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